19世紀のアルジェリア征服戦争で、自国の兵士がバッタバタと死んでしまったことで、フランスは外国人を兵士に雇って部隊をつくることにした。
ぶっちゃけ、外国人なら多くが死んだとしても国民からの非難は少なくて済む、という悪魔の論理が背景にある。
そんな記事をこのまえ書いたのですよ。
日本の高校野球やサッカーで、地元出身の高校生はほんの少し(下手するとゼロ)で、大部分か全員が全国から集められた強者(もさ)で構成されるチームを「外人部隊」(県外人部隊)ということがある。
このネット用語の由来もこのフランス外人部隊と思われ。
今回はこの記事のオマケで、日本人なら知っておきたい「明号作戦」を紹介しよう。
先週の3月9日は、この作戦が行われた日だったことだし。
そのほうがより厨二心をくすぐるせいか、アニメやマンガでは「レギオン(The Legion)」なんて呼ばれることもあるこの外人部隊、歴史上ではフランスの植民政策と密接にかかわっていた。
アルジェリアのほかにもスーダン、マダガスカル、モロッコといったところでフランスの手足となって動いていて、19世紀後半になるとベトナムへやってくる。
ナポレオン3世が1858年に、フランスの宣教師を保護するという名目で遠征軍を派遣したことから始まり、支配地域を広げていってベトナム・ラオス・カンボジアを完全な植民地にしてしまう。
太平洋戦争が始まると日本軍がそこへやってきた。
フランス本国はドイツに降伏して、ヴィシー政権はドイツの味方(というか傀儡政権)になっていたから、ドイツと同盟関係にあった日本も、インドシナにいたフランス軍とは敵対せずに共存していた。
だがしかし、1944年6月に歴史が大きく動く。
連合軍がノルマンディー上陸作戦を成功させると、ドイツ軍を駆逐しながら進軍していき、ヴィシー政権を倒してド・ゴールのフランス共和国臨時政府が統治することとなる。
インドシナにいたフランス軍と日本軍の関係も変わって、互いを敵として強く認識するようになった。
フランス植民地下にあっても、インドシナでは形式的には王が存在していた。
日本は太平洋戦争を始めた目的に「欧米からのアジア植民地解放」を掲げていたから、フランス植民地軍と戦ってベトナム・ラオス・カンボジアを”解放”しようと考える。
そしてトキはきた。
1945月3月9日、日本軍はフランス軍に奇襲攻撃を仕掛けると、わりとあっさり撃破して降伏させる。
このとき日本の兵士と戦ったレギオン(フランス外人部隊)にも多くの犠牲が出て、中国へ逃げる部隊もあったという。
この「明号作戦」に参加した元日本兵は、そのときの様子をこう振り返る。
(明号作戦 仏印の思い出)
「我々一般兵士の荷物は大体弾薬百二十発、榴弾一発、背のう、銃・剣・鉄帽など少なくも四十キロ近い重さである。」
「中隊長の命令で死骸の転がっている、熱気で悪臭がぷんぷんする中で「昼食」という指示があったが、我々初戦の経験しかない者は少しも食べられなかった。しかし五〜六年兵は悠々として食べていた。さすがに戦争の経験者らは違うものだとつくづく感銘する。」
「フランス軍の兵舎の中は我々日本軍に比べれば想像もつかないような贅沢な暮らしで、個人の裕福な民家のような生活状態であるように思われた。」
降伏するフランス兵
同時に日本はベトナムのほか、ラオスのシーサワーンウォン国王やカンボジアのシハヌーク国王にも独立宣言を行わせた。
ベトナム阮朝の保大帝(バオ・ダイ)は、フランスとの保護条約を破棄し、チャン・チョン・キム(陳仲金)を首班とするベトナム帝国(越南)樹立を3月11日に宣言した。
といっても日本に促されてのこの「独立」は、しょせん形式的なモノであまり意味はない。
この5カ月後に日本は降伏することになる。
すでにかなり弱体化していて敗戦の気配は濃厚だったから、最後に「解放させた」という実績をつくりたかったのでは?
ベトナムでの知名度は低く、知人のベトナム人に聞いても明号作戦を知ってる人は誰もいなかった。
学校では日本軍は解放ではなく、“侵略した”と習ったという。
でも日本人なら、日本軍が外人部隊を含めたフランス軍と戦って、ベトナム・ラオス・カンボジアを表面的に“独立”させた、この作戦のことを知っておいてもいい。
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