【無慈悲と寛容】現代インド人が皇帝アクバルを好きな理由

 

日本の会社で働いていたインド人が日本人の同僚と話をしていたとき、日本人の価値観や考え方が分かると思い、「日本で人気のある人物はダレですか?」という質問をした。
そのときいた3、4人の日本人があげた人物は織田信長。
信長は日本の歴史でも最強レベルにいる武将で、その圧倒的な攻撃力のおかげで、100年ほど続いていた戦国時代を早く終了させることができた。
それに鉄砲という新しい武器をすぐに採用し、それを使った攻撃法を考案するなど柔軟性もある。
さらに天下統一の寸前で、部下の裏切りにあって殺されたというドラマティックな終わり方も、日本人を引きつける。
だからドラマや小説で彼はよく取り上げられるし、有名なゲームにもなっている。

そんな話を聞いて、インド人は意外に思ったらしい。
彼から見ると日本人は穏やかな性格で、議論どころか反論や否定することさえ好まないし、平和や協調性をとても大事にしている。
同僚の話を聞くと織田信長はその真逆で「戦いが好きな独裁者」のイメージがして、日本人がキライそうな人物なのに実はとても人気がある。
インド人ならそういう強くてリーダーシップのある人物を尊敬するけど、日本人もそうだというのは彼にとっては予想外。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という人が身近にいたらイヤだけど、歴史上の人物ならとても魅力的だ。

で、そう言う彼に、「インドで人気のある人物はダレか?」とたずねたら「アクバル」という。
この人と織田信長には重なる部分がある。

 

アクバル

 

1556年に父のムガル帝国皇帝、フマーユーンが図書館の階段から落ちて死ぬと、アクバルは13歳の若さで新皇帝に即位する。
でもそのころ周囲には強大な敵対勢力がいて、ムガル帝国の統治はまだまだ安泰とはいえない状態にあった。

「父親が急死して、まだ経験や知識のない少年が皇帝になった。」というのはもう、反乱のフラグでしかない。
「トキはきた」とばかりに、スール朝のヒンドゥー教徒の武将ヘームーが兵を動かし、デリーとアーグラを占領して王となって、自分の名を刻んだコインをつくらせた。
パンジャーブ地方で敵と戦っていた最中に、その知らせを聞いたアクバルは思わず「マジかっ」と声を上げる(たぶん)。
10万の敵軍に対して自軍は2万という圧倒的不利な状態で、「まずはカーブルに移動して、兵士を増やして準備を整えたあと、もう一度インドを征服するべきでは」という意見は却下して、アクバルはデリーへ引き返す。

アクバル軍はデリー郊外にあるパーニーパットで、ヘームーの軍とぶつかりそのまま交戦となる。
高校で世界史を習った人なら、この地名に聞き覚えがあるはずだ。
ここはバーブルがローディー朝の王を破って、ムガル帝国を建国するきっかけとなった1526年の「パーニーパットの戦い」が行われた場所で、アクバルにとってはかなり縁起がいい。

でも、多勢に無勢の絶対的不利は変わらず。
戦力差にモノを言わせてヘームーの軍はアクバル率いるムガル帝国軍を包囲し、勝利は目前かと思われたとき、ヘームーは片目を矢で射られて意識を失う。
軍は大混乱になって彼もアクバル軍に捕まった。
アクバルのじいちゃん、バーブルの霊がその場にいたかも。

このときアクバルは宰相のバイラム・ハーンから、ヘームーを自分で殺して、異教徒を自らの手で殺害した人物に与えられる「ガーズィー(聖戦士)」 の称号を得るよう提案された。
でも彼はこれを拒否して、部下に処刑させる。

ただヒンドゥー教やシク教などの異教徒や同じイスラーム教徒でも、自分に歯向かった者には一切の慈悲はなかった。

帝国軍はヘームーの軍を大量虐殺し、首でモンゴル式の塔を作り、その死体はパーニーパットからデリーまで続いたとされる。

ヘームー

 

この1556年の「第二次パーニーパットの戦い」のアクバルと、1560年の「桶狭間の戦い」の織田信長には、数倍の敵軍に挑んで勝利したという輝かしい共通点がある。
*織田軍の兵力は数千人で、今川義元の軍は1万人~4万5千人だった。
この運命の一戦に出かける直前、『敦盛』を舞った信長みたいに(このへんも人気のポイント)、アクバルも迷いを捨てる儀式をしたかも。

 

象に乗るアクバル

 

このあともいろんな敵を撃破して、アクバルは多くの血をインドの大地に流したけれど、彼は戦いに飢えた野獣ではない。
ムガル帝国を安定させた、偉大な政治家だったというところも信長に似ている。
その後アクバルは西にいたヒンドゥー教勢力、ラージプートと同盟関係を結んで、その証明として多くのヒンドゥー教徒の王族の女性と結婚した。
しかも彼はその女性たちにイスラム教徒へ改宗させることなく、ヒンドゥー教を信仰する自由を認めた。
この宗教に寛容な政策によって、ラージプートはアクバルの頼れる味方となり、ムガル帝国は強大になっていく。

でも、自分の要求を受け入れない人間に容赦はない。
ラージプートのメーワール王国が臣従を拒否すると、アクバルは首都チットールガルを包囲し、猛攻撃をしかけて廃墟に変えたあと、3万人もの兵士や農民を殺害する大虐殺を行った。
このへんも信長とデジャブ。

 

宗教の違いを戦争の理由にしなかったアクバルの時代、ムガル帝国内にはヒンドゥー教徒など非ムスリムの人口が増えていったから、アクバルはイスラム法によって定められていた、異教徒へのジズヤ(人頭税)を廃止した。
それが1564年のきのう3月15日のこと。
知人のインド人はこれを画期的なことだと絶賛する。

いまのアーグラ城を建設したアクバルにちなんで、その都市は「アクバルの町」を意味するアクバラーバードという名前になった。

イスラムの皇帝でありながら、ヒンドゥー教などの異教徒にやさしかったアクバルの治世、ムガル帝国は広大な領土とばく大な富を手に入れて全盛期を迎えた。
「アッラーフ・アクバル(アッラーは最も偉大である)」のアラビア語、「アクバル」を名前にもつこの皇帝はいまのインド人に大人気で尊敬されている。

アクバルは、先述のアショーカ王やスール朝のシェール・シャーとともに最も成功した君主であり、インドの最も偉大な王であり融和の象徴として、現在のインドでも人気が高い。

アクバル

たそがれるアクバル

 

現代のインド社会をみてみると、ヒンドゥー教とイスラム教の宗教の違いはドでかい地雷になっていて、ときどきこれが爆発して死傷者を出す事件が起きる。(インドの宗教間対立
和を大事にしていて、平和な社会にいる日本人が織田信長を好きなように、「ないものねだり」的なことが理由になって、その反対側にいるような人物が人気になることはインドでもあるらしい。

 

 

ヒンドゥー教のサティーVSムガル帝国とイギリスの植民地支配

生きたまま焼かれるインドのサティ―(儀式)とその様子

「インド・カテゴリー」の目次 ①

サティー、この世に残した「小さな手形」:ジョードプル(インド)

タージマハルを知りましょ① 目的とは・世界の評価・インドの歴史

宗教と女性差別②神道の女人禁制の理由とは?穢れと清め

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。