中浦ジュリアンの人生:教皇と初めて会った日本人→拷問&処刑 

 

大河ドラマをはじめ数々の有名ドラマへの出演経験があって、「名脇役」と呼ばれていた有名俳優に過去の女性問題が発覚して、いまその人は完全終了の瀬戸際にいる。
人がうらやむ頂点から一気に奈落へ落ちる、ジェットコースターみたいな人生を歩む人はそれほど珍しくもない。
でも、中浦 ジュリアン(1568年-1633年)のレベルになると、上から下へ落ちる高さとスピードは日本の歴史上も屈指で、ここまで落差のある人はなかなかいない。

 

中浦 ジュリアン

 

ジュリアンがその人生で栄光の頂点にいたのが1585年のきょう3月23日、天正遣欧(てんしょうけんおう)少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に謁見したころだ。
イエズス会の宣教師ヴァリニャーノの発案で、九州のキリシタン大名(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)の代わりに、4名の少年が使節団がローマへ派遣された。
伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノとともに中浦ジュリアンがその少年使節の1人で、彼らはヨーロッパへ行って、日本に戻ってきた初めての日本人と考えられている。
それは彼らがキリスト教徒という立場だったから。
ヨーロッパには奴隷にされた日本人がこの少年使節よりも先に到着したけど、彼らは日本へ戻ってくることはできなかったとみられている。

1582年に長崎港を出港をした彼らは、84年にヨーロッパへ上陸する。
その後はスペイン国王フェリペ2世や各地の貴族の歓迎を受けつつローマへ進んでいき、1585年のきょう、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ジュリアンらにはローマ市民権が与えられた。
ローマに着く直前、伝染病にかかって高熱を出していたジュリアンのために、公式な謁見の前にローマ教皇は、ジュリアン一人のために特別謁見を行って彼を抱擁して祝福する。
ジュリアンは公式謁見は欠席したものの、4人の中で一番早く教皇に謁見するという栄誉を授かり、「ローマ教皇と会った初めての日本人」の称号も手に入れた。
さらにその後、4人はグレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式にも出席する。
ここまでの名誉を授かった日本人は天正遣欧少年使節しかいない。
1590年に長崎に戻ってきたあと、彼らはまっさかまに転落する。

 

グレゴリウス13世にひざまずく伊東マンショ

 

帰国の翌年1591年に、4人は聚楽第で豊臣秀吉に拝謁し、その席で西洋楽器を演奏して西洋の歌を披露して、「もう一度やってくれ!」と秀吉にアンコールをさせるほど喜ばせた。
でも江戸時代になって、幕府がキリスト教を本格的に禁じるようになると彼らの運命は暗転。
幕府の禁止のなかでも、隠れて布教活動をしてた中浦神父(ジュリアン)は1632年に小倉で捕まって長崎へ送られる。
そこで拷問を受け、キリスト教を捨てるよう迫られても、ジュリアンは棄教をダンコ拒絶したことで、逆さづりにされる「穴吊るしの刑」に処せられた。
これは全身の血が頭にたまって少しずつ出血していき、想像を絶する苦痛を味わいながらゆっくりと死に至るという鬼畜のような処刑だ。
でも意識はあるし、「キリスト教を捨てます」と棄教の意思を示せば助けられた。
この拷問でポルトガルの宣教師フェレイラ(下の動画)は棄教したが、中浦ジュリアンは最期まで信仰を失わず、逆さづりの状態にされて4日目、65歳で亡くなった。
最期の言葉は「この大きな苦しみは神の愛のため」だったという。
ローマ教皇と個別で会ったときの栄光を思い出しながら、彼はこの拷問に耐え続けていたのでは。

この殉教の場面を切り取るとキリスト教徒は被害者なんだが、日本人を奴隷にして世界各地へ連れていき、死ぬまで働かせる運命を与えたのもキリスト教徒だ。
だから、彼らは一方的な加害者や被害者ではない。

 

 

 

【日本人とキリスト教】長崎の2大殉教事件・鬼利支丹行列

1 個のコメント

  • > 最期の言葉は「この大きな苦しみは神の愛のため」だったという。

    信者には、「もしもそのような場面に出くわしたら、ためらわず、嘘をついてでも自分の命を守れ」と教えるべきだったと思います。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。