平安時代の辞書「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)でゾウについてはこんな説明がある。
「似水牛、大耳、長鼻、眼細、牙長者也」
水牛に似ていて長い鼻をもち、細い目をしていて長いキバがあるというのは、いまの日本人が思い描くゾウのイメージとほぼ同じでしょ。
さて4月28日はそ「象の日」という記念日だ。
徳川吉宗が享保の改革をしていた1729年のこの日、ベトナムからきたアジアゾウが中御門天皇に謁見したことにちなんでこの記念日がつくられた。
一応、“鎖国”をしていたこの時代の日本でも、オランダ人や中国人から海外の情報は入っていて、好奇心をめっちゃ刺激されたせいか、江戸幕府(吉宗)がベトナムのゾウを購入することにした。
そして1728年にオス・メスの2頭とゾウ象使いが長崎港に到着。
そこから江戸まで歩いて移動する間、一般人にも「将軍さまのゾウ」を見物することが許されて、大きな音を立てないことやお寺の鐘を鳴らさないといった注意を守って、多くの日本人がこの地上最大の動物を目撃した。
当時27歳だった中御門天皇(なかみかどてんのう)も、「マジかよ、見たいに決まってんじゃん!」とお思いになり(たぶん)、ゾウは外出禁止令の出された京都の街を歩いて清浄華院に着いてそこに泊まった。
そして京都御所に入って天皇と謁見したのだが、このときゾウの“身分”が問題になる。
日本で最も高貴で神聖な御所へ入ることができるのは、公家など特別な人間だけで、珍しいというだけで何の地位もなかったゾウを入れるのはマズい、という意見が出てきた。
まあ、アホですかと。
でも、見たいものは見たい。
それで朝廷はゾウに「従四位」の地位を与えて、「広南従四位白象」という立場で御所へ入ることを許可する。
京都に到着したゾウ
天皇のほか関白、左大臣、右大臣、大納言といった日本最高の頂点にいた人たちが御所でゾウを見物する。
中御門天皇は大感激したようで、こんな和歌を詠んだ。
「時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ」
そして箱根を越えて江戸へやって来たゾウは、庶民を熱狂させて大フィーバーを起こす。
くれぐれも不作法のないよう、また象に菓子などを投げ与えることは固く禁ずることが申しわたされた。象は、到着にあたって江戸市民の熱狂的な歓迎を受け、市中往来を練り歩いたのち江戸城外の浜御殿に収容された。
このあと徳川吉宗や幕臣が江戸城で、ベトナムからやってきたゾウを見る。
でも吉宗の感想は探しても見つからなかったから、期待値以下でけっこうガッカリだったかも。
その後ゾウは、エサ代がかかり過ぎるといった当たり前の理由で民間人に払い下げられたから、将軍さまは気まぐれだ。
ベトナムにいたらその他大勢の一匹だったゾウは、島国の歴史に残る一生を過ごして最期は病死した。
ハイライトは日本人の形式主義・官僚主義で、「広南従四位白象」という貴族になったことか。
日本の歴史で、これのゾウより地位の高い生き物なんて知らない。
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