きのう4月6日は、江戸時代の日本でこんなことがありました。
1633年:幕府が第一次鎖国令を出す。
これで日本人が海外へ行くことや、海外に5年以上いた日本人が帰国することを禁止された。
1805年:日本との貿易を求めてやってきたロシアの使節ニコライ・レザノフに、「だが断る。」と通商の拒絶を伝えた。
1825年:幕府が異国船打払令(無二念打払令)を出す。
ということで、それぞれの年の4月6日はすべて「鎖国」に関することだ。
日本は江戸時代、オランダや清などと貿易をしていたから完全ではないけど、でも基本的には外国をシャットアウトして関係をもたないようにしていた。
それは、キリスト教が幕府に”危険思想”と認識されていたことが大きい。
戦国時代には布教を許可していたが、将軍より神を信じるこの一神教は江戸幕府の日本統治にとってきわめて都合が悪い。
だからそれは排除する一方で、日本に役立つ西洋の学問やモノは受け入れていたから、大きく見えれば「鎖国」とは壮大な取捨選択の結果だ。
4月5日とは関係ないんだが、1620年に「平山常陳事件」が起きたことも幕府の鎖国政策に大きな影響を与えている。
平山常陳(じょうち)という人物が、禁止されていたにもかかわらず、2人のヨーロッパ人宣教師を朱印船に乗せてマニラから日本へやってきた。
この”罪”によって、平山常陳と2人の宣教師は生きたまま焼かれて処刑され、10人以上の船員も首をはねられる。
この平山常陳事件で、キリスト教や信者に対する幕府の不信感や嫌悪感が高まり、1622年に55人のキリスト教徒が一斉に処刑された「元和の大殉教」につながった。
長崎の出島
この鎖国という用語、もともとは外国語で日本人がつくったものじゃなかった。
長崎の出島にあったオランダ商館で、医師をしていたドイツ人のケンペルが、
『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』
というタイトルの論文を書く。
そしてそれを日本語訳した蘭学者の志筑 忠雄(しづき ただお:1760年 – 1806年)が「ながすぎるわっ」と思い、簡潔に「鎖国論」という日本語にした。(鎖国)
「自国人の出国や外国人の入国を禁じる」という状態がどれだけ異質で特徴的なのかは、世界中の海を移動して、いろんな国と貿易をしていた当時の西洋人の方がよく分かる。
大学で日本の歴史を学んでいた知人のアメリカ人は、移民大国のアメリカとは真逆の鎖国政策が印象に残ったという。
外国との交流を拒否したことは、そこまで意外じゃなかったけど、日本人の帰国まで禁止したという厳しさを知ってビックリしたらしい。
でも当時のヨーロッパ人宣教師に、”ダーティー”な面があったことは確か。
1963年にイギリスから独立して、ケニアの初代大統領となったケニヤッタはこう言った。
「When the Missionaries arrived, the Africans had the land and the Missionaries had the Bible. They taught how to pray with our eyes closed. When we opened them, they had the land and we had the Bible.」
宣教師がアフリカにやってきたとき、われわれアフリカ人は土地を持っていて、彼らは聖書を持っていた。彼らはわれわれに目を閉じて祈ることを教えた。われわれが目を開いたとき、彼らは土地を持ち、われわれは聖書しか持っていなかった。
外国へやってきてキリスト教を布教し、現地で信者を増やして、やがてその土地を奪ってしまう。
むかしの西洋人はそんなヒドイことをしていたから、キリスト教の徹底排除を目的に、鎖国をきめた江戸幕府の対応は正しかったとそのアメリカ人は話す。
歴史の知識もアップデートを!今の教科書の「聖徳太子・カースト・鎖国」
中学の教科書からインドの「カースト」と「士農工商」が消えてた。
海外旅行のトラブル「まさかの盗難」:列車・バス・タクシーでの注意
外国人(アメリカ人とヨーロッパ人)との会話がで盛り上がる話題
コメントを残す