日本へ初めて来たヨーロッパ人が、ポルトガル人だった理由

 

ブラジルについての知識は、サッカー・アマゾン・サンバのほぼ3つだった20年ほど前、ブラジル人はブラジル語ではなくて、ポルトガル語を話すことを知って目からウロコが落ちた。
南米のなかで、ブラジルだけがスペイン語ではなくポルトガル語を話す理由は、1494年にスペイン帝国とポルトガル王国の間で結ばれたトルデシャス条約に原因がある。

トルデシリャス条約:南米でブラジルだけ、ポルトガル語なわけ

前回そんなことを書いたんで、今回はそのオマケですよ。
日本へ初めてやって来たヨーロッパ人は、イギリス人でもフランス人でもスペイン人でもなくて、ポルトガル人だった。
それは偶然ではなくて必然だった、というのが今回のテーマ。

 

新大陸(アメリカ大陸)の領有をめぐるスペインとポルトガルの争いは、いまのブラジルのあたりから東はポルトガルの“もの”、それ以外はスペインの“もの”とすることを確認したトルデシリャス条約でとりあえず終わった。
そんな1493年のトルデシリャス条約で地球を勝手に分割しやがったあと、次にスペインとポルトガルは、香辛料がたくさん取れるモルッカ諸島(いまのインドネシアにある島々)をめぐって対立する。

ヨーロッパでは昔、遠出や冬に備えて肉や魚を保存するため、肉の強いニオイを消すためなどで香辛料(スパイス)が使われていた。
これは入手困難な貴重品で、かなり高価で取り引きされていたから、多くのヨーロッパ人が命のリスクを賭けても香辛料を求めて海外へ船出していた。
そんなヨーロッパ人にとって、「スパイス諸島」とよばれたモルッカ諸島は夢の島、まさに黄金の島。
だから、スペインとポルトガルがこの島をめぐって、争うことはもはや避けられない。
そんな対立を解決するため西方のトルデシリャス条約のほかに、地球の東側にも分割線を決める必要が出てきた。
それでスペイン・ポルトガルが話し合った結果、1529年にサラゴサ条約が結ばれて地球上に下の緑のラインが引かれた。

 

トルデシリャス条約(紫)とサラゴサ条約(緑)の境界線
画像:Lencer

 

豊富な香辛料を生み出すモルッカ諸島を手に入れれば、間違いなく大もうけできる。
ということでこのあとオランダやイギリスがやって来て、この島々をめぐって「スパイス戦争」といわれる争いが始まり、多くの住民がその犠牲となった。

バンダ諸島の原住民は、オランダによってほとんどの住民が虐殺されたり奴隷にされるという戦いによってほとんどすべてのものを失った。香辛料戦争の間に6000人以上が殺された。

モルッカ諸島

 

話は変わってここからはジャパン。
種子島の砂浜に1543年、100人ほどの外国人を乗せた船した船が漂着した。
彼らは言葉も通じないし、それまで日本人が見ことなかったような服を着ていた。
そんな未知の外国人と一緒にいた中国人に事情を聞くと、この西洋人たちは粗野なところがあって文盲だけど、商売をしたいだけで怪しい者ではないという。(鉄炮記
こうしてヨーロッパ人としては初めて、ポルトガル人が日本へやって来た。
このとき彼らが持っていた鉄砲(火縄銃)も日本に伝わって、戦国時代を終わらせる重要な武器となったのは歴史の授業でならったとおり。

 

トルデシリャス条約とサラゴサ条約によると、だいたいブラジルから日本の岡山あたりまでがポルトガル領で、それ以外はスペイン領になっている。
1543年に日本へ初めてやってきた(漂着した)ヨーロッパ人が、ポルトガル人だったというのは偶然ではなくて、その背景にはこの条約がある。
ポルトガルに認められた海外領はブラジルとヨーロッパの東方だったから、アフリカ、インド、東南アジア、中国に植民地や貿易拠点を築きながら、東へ東へ進んできてついに種子島に上陸した。
だから日本人とポルトガル人の出会いは、偶然ではなくて必然だったのだ。
でもその後、キリスト教の布教を警戒した江戸幕府はポルトガルとは手を切って、オランダだけをパートナーに選ぶ。
これも歴史の必然だ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。