ほんじつ4月26日は、1937年に「ゲルニカ爆撃」があった日。
ゲルニカはスペイン・バスク地方(宣教師フランススコ・ザビエルの出身地)の中心地で、この日にドイツ空軍のコンドル軍団が飛来すると、ドカドカ爆弾を落として去って行った。
後に残されたのは死体と廃墟と、生者の絶望のみ。
このときスペインは内戦の真っ最中で、人民戦線政府と軍人のフランコを中心とした反乱軍の2つのグループに分かれて争っていて、フランコから支援を求められたドイツはそれを快諾。
もちろんそれにはワケがある。
1918年のちょうどいまごろ(4月下旬)、第一次世界大戦でフランス・イギリスの陸軍とドイツ陸軍との間で、史上初となる「戦車 vs 戦車」の戦闘が行われた。(1918年春季攻勢)
春季攻勢で勝ちきれなかったドイツは第一次世界大戦で敗北し、フランスに領土を奪われて、軍事力をかなり削減される屈辱的な講和条約を結ばされた。
だがしかし、ドイツは1935年にこのヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言する。
そして臥薪嘗胆、フランスとの戦争を想定していたドイツは、スペイン内戦をちょうどいい「実戦訓練の場」となると考えた。
とくにヒトラーによってドイツ空軍の総司令官に任命されたゲーリングにとってこの戦場は、いろんなことを試せる魅力的な場所に映った。
結果的に、約3年間続いたスペイン内戦でドイツは、新型の爆撃機を投入する、新しい戦術をおこなう、パイロットに経験を積ませるといったことを行ない、それによって明らかになった弱点があれば改善していった。
言ってみればPlan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)のPDCAを繰り返すことで、ドイツ空軍は知識・経験・技術を身につけて精強な軍隊へ成長することができたわけだ。
そして第二次世界大戦ではこれが連合軍を苦しめる。
そんなドイツ空軍の踏み台にされたのがゲルニカの人たちだ。
ゲルニカ爆撃はドイツから派遣されて、フランコ側に立って参戦した「コンドル軍団」によって行われた。
このとき新しい戦闘機や爆撃機が使われたから、ドイツにとってはステップアップのための実戦経験の場とみていたのだろう。
1937年4月26日、効率よく大ダメージを与えるために、コンドル軍団はこんな三度にわたる攻撃を行う。
第一に爆撃機が高威力の爆弾を投下して建物を破壊し、第二に戦闘機が機銃掃射を行って住民を射撃し、第三に爆撃機が焼夷弾を瓦礫の上に投下して大規模な火災を発生させた。
ゲルニカ爆撃を指揮したリヒトホーフェン(写真・右)はこう語る。
「250(部隊)は多くの家と水道を破壊した。焼夷弾がその威力を示す時が来た。瓦葺で木組みという建築構造は、完全な破壊をもたらした。・・・街路には爆弾の穴がまだ見える。素晴らしい」
人類の歴史で、焼夷弾が本格的に使われたのはこのときが初めて。
ドイツ空軍にとっては「素晴らしい」というこの完全な破壊は、焼夷弾による2000~3000度で10分以上も燃えつづける炎の産物で、このとき地上にいた人間にとっては地獄でしかない。
木造住宅の多かったゲルニカで、この攻撃はたしかに”効果的”だった。
この爆撃による正確な犠牲者の数は不明ながら、2000人以上の市民が死亡したという説がある。
ゲルニカ爆撃は史上初の都市無差別爆撃となって、史上最大の犠牲を出した1945年の無差別爆撃・東京大空襲につながった。
だからゲルニカ爆撃は日本人にとって他人事ではない。
スペイン内戦(1936 – 1939年)は、ドイツやイタリアの支援を受けたフランコ側の勝利に終わり、それ以降はフランコによる独裁、暗黒の時代が始まる。
一方、この内戦で経験を積んだドイツ空軍のパイロットは、第二次世界大戦のポーランド侵攻やフランス侵攻で”大活躍”した。
スペイン内戦はとんでもない悪魔を育ててしまった。
ピカソが描いた作品「ゲルニカ」
スペインとフランスの2国間国境にまたがる「バスク地域」は、昔から独立志向が強く、特にスペイン・バスク地方では、ETAと呼ばれる独立運動家たちのテロ事件が20世紀末まで何度も起きていました。ゲルニカ爆撃では、そんな地域性が当時のスペイン政権とドイツ政権に利用されたのでしょうね。
現在はかなり使い手も少なくなったようですが、バスク語はスペイン語やフランス語など他のヨーロッパ言語から遠く離れた「インド・ヨーロッパ系言語が伝達する以前の旧欧州型孤立語」です。また住民の過半数の血液型が「Rhマイナス」であること(おそらく世界中のRhマイナス血液型がバスク地方に由来する遺伝)とか、海産物をふんだんに使用した旨い料理が食えること、など特徴の多い地域です。