日本人のチャリティー精神:奈良時代に施薬院・悲田院を設置

 

今月5月5日は「薬の日」。
推古天皇が611年のこの日、大和(奈良県)で、薬草採取の「薬狩り」を行ったという記述が日本書紀にあることから「薬の日」になったと。
ちなみにこのとき女は薬狩りで、男は鹿狩りに行ったらしい。
鹿の角は鹿茸(ろくじょう)という生薬になるから、これも「薬狩り」と思われ。

でもって8日は、730年に光明皇后によって「施薬院」を設置された日。
苦しい状況にある人々を救いたいと光明皇后が願い、諸国から集めた貴重な薬草をお金のない人たちに無料で施す「施薬院」や、貧しい人や孤児を収容するための施設「悲田院」がつくられた。
伝説レベルでは、これよりも前に聖徳太子が施薬院と悲田院を設置したという説もある。
両院の設置は光明皇后の仏教的な慈悲によるもので、皇后が施薬院で物乞いや病人の体を一生懸命に洗ったとも伝えられている。
「悲田」とは、慈悲の心で困窮している人に施せば、福を生み出す田となるという意味らしい。

施薬・悲田院の設置は皇族による国家事業になる。
民間では庶民に仏教を伝えて、貧民救済にも取り組んだ仏教僧の行基(668年 – 749年)が慈善活動を始めた。
ということで、いまでは「愛は地球を救う」でおなじみの日本のチャリティー(慈善活動)は、大体この時代からスタートしたとみていい。

 

日本のマザーテレサ、光明皇后

 

全国から取り寄せた薬草で作られた薬は、本来は皇族や貴族など「上級国民」のためのモノ。
でも、日本では少なくとも奈良時代のころから、それが困窮者にも使われていたことが分かる。
この発想は日本オリジナルではなくて、当時、世界的な先進国だった中国にならったものだ。

仏教の博愛精神に根ざすもので、奈良興福寺に養老七年(七二三)、悲田院、施薬院が設けられている。これは唐制に倣ったものというが、唐では開元五年(七一七)、悲田院がひらかれた。本家の唐でつくられた悲田院が、その六年後に、はやくも日本でおなじものができている。伝来としては、きわめて早いといわねばならない。

「曼陀羅の山 七福神の散歩道 (集英社) 陳舜臣」

 

仏教の博愛精神に根ざすものなら、その起源は古代インドということになる。
命がけで船に乗って、中国を往復していた当時の状況や技術力からすると、日本が唐に学んで6年後に悲田院や施薬院をつくったことは、貧困層の救済を重視した日本人のチャリティー精神をよく表している。

 

 

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2 件のコメント

  • > 仏教の博愛精神に根ざすものなら、その起源は古代インドということになる。

    とは限りませんよね。「仏教の起源」は古代インドで間違いないですけれども。
    そもそも「仏教の博愛精神」って何ですか? 古代インドの仏教にそんな考え方がありましたっけ?
    確か、中国の仏教において「愛」とは「愛着」「執着」の意味であり、一般的にはあまり望ましくない(煩悩の一つ)とされていたと思うのですが。
    「博愛」という漢字語が使われるようになったのは、近代以降、キリスト教の影響では?

    古代中国での「慈善」的思想のことを取り上げるなら、それは古代インドの仏教徒はあまり関係ないと思います。元々のインド仏教では修行により「自ら悟りを開くこと」が目標であって、「衆生を救う」という考えは薄いですから。むしろ「博く民を愛する」ような「墨家」的思想は、中国オリジナルの思想(大乗仏教)ではないでしょうか。

  • 仏教を創始して、その教えを身分に関係なく伝えたシャカの言動は博愛精神そのものです。

    >元々のインド仏教では修行により「自ら悟りを開くこと」が目標であって、「衆生を救う」という考えは薄いですから。
    この根拠は何ですか?

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