きょう5月12日は1949年に、ソ連が行っていた「ベルリン封鎖」が解除されためでたい日。
このベルリン封鎖はアメリカをボスとする西側陣営と、ソ連をボスとする東側陣営との冷戦初期の対立を象徴する出来事で、結局これはソ連の判断ミスで大失敗に終わる。
まず第二次世界大戦の敗戦後、ドイツは戦勝国のソ連・アメリカ・イギリス・フランスに分割統治されることになった。
下の地図の赤い部分がソ連の支配下に置かれたところで、その中にあるベルリンも4カ国に分割された。
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このときからすでに東ベルリンを統治するソ連と、西ベルリンを統治する米英仏の西側との対立は始まっていた。
ソ連は1948年6月に、西ドイツと西ベルリンを結ぶすべての道路や鉄道を利用不可能にする「ベルリン封鎖」を断行した。
陸路が完全封鎖されれば、西ベルリンには西側諸国から、食べ物や石鹸、トイレットペーパーなどの生活必需品が届かなくなるのは必然。
それによってソ連側は、物資不足から生活苦におちいった西ベルリンの市民が暴動やストライキを起こし、さらには社会主義革命が発生することや、西側諸国に西ベルリンの支配を断念させることを狙った。
陸路を封鎖されて、西ベルリンに住む200万人の生活を支える物資を送ることなんてできるはずがない。「西側陣営は詰んだな」とこのときソ連は思ったと思われる。
でも、ベルリンまでの3本の空路、いわゆる「ベルリン回廊」までは封されていなかった。
そこで西側はアメリカを中心にして、輸送機をバンバン飛ばして生活物資を量輸送する「ベルリン大空輸」を開始する。
物資を満載したC-54輸送機を見上げる西ベルリン市民
西ベルリンの全市民が生活するためには1日あたり、小麦(小麦粉)646 t、肉・魚介類109 t、乾燥野菜144 t、砂糖85 t、コーヒー11 t…と合計で約1,439 t が必要と分かり、このほかにも燃料となる石炭などの物資の必要量も算出し、これらすべてを満たすために、C-54輸送機によって大量の生活物資が毎日、何度も西ベルリンへ届けられた。
翌年49年には1日だけで約1400回という、考えられないようなフライトを実現させる。
こうして事前には不可能と思われていた、西ベルリン市民の必要とする物資を航空機のみで輸送するという試みは、成功したことが明白となった。
輸送機に載せられる牛乳
想像を超えた西側のベルリン大空輸によって、ソ連もベルリン封鎖の失敗を認め、1949年5月12日に封鎖を解除した。
結果的に、これによって米英仏の西側陣営の結束は強まったし、英米軍を「占領軍」と冷ややかに思っていた西ベルリン市民も「防衛軍」と信頼するようになった。
これと同じようなことを、いまロシアはウクライナでやっている。
あの軍事侵攻によって、アメリカとヨーロッパの絆は強固になったし、ウクライナ国民は軍事支援してくれる欧米を頼りにするようになった。
ロシアは「NATOの拡大を阻止する」という名目でウクライナへ攻め込んだのに、それを見て、いまでは北欧諸国がNATOへの加盟を希望するようになった。
やることなすこと全て裏目に出るという愚行を、ロシアはいつまで繰り返すのか。
「ヤルタで始まりマルタで終わった」冷戦終結から30年後のいま
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