ピラミッドとカレーを見た日本人 幕末の横浜鎖港談判使節団 

 

「いや~、(鎖国)ご苦労さん」で有名な1859年のきょう6月2日、日米修好通商条約に基づいて横浜港が開港した。
当時の国際情勢から、「もう“鎖国”なんてしてる場合じゃねえ」とやっと気づいた日本と、このときまだ西洋に国を閉じていた朝鮮ではこのあとドえらい差がつく。
そんな横浜港の開港とともに、カレーも日本に入ってきたということで「横濱カレーミュージアム」が6月2日を「横浜カレー記念日」にした。

でもその直後、西洋を嫌った孝明天皇が攘夷勅命をだしたことで、江戸幕府が欧米諸国に「開港した横浜港なんだけど、やっぱり閉鎖しますネ。」なんてことを言いだす。
で、その交渉のために1864年、幕府は横浜鎖港談判使節団をフランスへ派遣した。が、パリで謁見した皇帝ナポレオン3世から「おとといきやがれ」と言われて(たぶん)、横浜港閉鎖の交渉は失敗に終わり、目的を果たせないまま使節団は帰国する。

 

そんな歴史的意義よりも、横浜鎖港談判使節団はスピンオフ的なことで有名だ。
このときの日本人が自力でヨーロッパまで行くことは不可能で、使節団一行はフランス軍の軍艦に乗って日本を出発する。
その船旅の途中、アラビア人が得体の知れない食べ物を手で食べているのを見て、岩松太郎という武士が日誌にこう書いた。

「飯の上へトウガラシ細味に致し、芋のどろどろのような物を掛け、これを手にてまぜ手にて食す。至って汚き人物の者なり」

ご飯の上ヘ、どろどろしたイモのようなものをかけた食べ物。
それはまさしくカレーで、これは、日本人が初めてカレーを見た最古の記録といわれている。
手で食べるカレーは美味しいのだけど、江戸時代の武士が見たら「うわっ!超きたねー」と思うのもやむなし。

 

 

約30名の横浜鎖港談判使節団は、上の池田 長発(いけだ ながおき)という27歳の若きリーダー(正使)が率いていたから「池田使節団」ともいう。
池田ら一行はフランスへ向かう途中、2週間ほどエジプトに滞在して、その間にカイロ近郊のギザへ足を運んだ。
そこにあったのは、ご存知ピラミッドとスフィンクス。
当時の随行員の記録にはこうある。

「三角山に登山、入窟の者もあり。この山何の故に作りしやと問うに、仏の為という。山後に又二山あり。その下に石首あり。石首の下に本朝人列立して写真をとる」

三角山とはピラミッドのことで、それを見た武士は登ったり中に入ったりして楽しんだらしい。
「山後に又二山あり」というのは三つのピラミッドが並んでいる状態のことで、これはいまでも同じでよく「ギザの三大ピラミッド」という。
でも、彼らがピラミッドとスフィンクスを見た初めての日本人ではなくて、これ以前にも、文久遣欧使節の一行(ヨーロッパへ派遣された初の使節団)がここを訪れて、その中にいた福沢諭吉がピラミッドを見た感想を残している。

 

石首(スフィンクス)の下に本朝人(日本人)が列立して写真をとるというのは、コレのこと。

 

スフィンクスの前で記念写真を撮る池田使節団
スフィンクスと侍の写真はこの一枚だけ。

 

現代なら、「スフィンクス now 」とインスタにアップするような、ステキ写真が撮れてよかったのだが、交渉に失敗した池田は帰国後、石高を減らされたり蟄居を命じられるなど幕府に処罰された。
使節団にいた武士は日本初のカレーの記録を残す、ピラミッドに登ったり中へ入る、スフィンクスと一緒に写真を撮る、といろんなネタをつくったから21世紀でもよく語られている。
この功績に比べれば、横浜港の閉鎖なんて今となってはどうでもいい。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。