「開国などありえん!わが国は鎖国を続けるのみ!」といった強硬な態度の江戸幕府は、1825年に「異国船打払令」を出す。
これは、オランダ以外の西欧船(異国船)を見つけたら、すぐに砲撃して追い返せというもの。
「あ、異国船だ。でも、いきなり攻撃しないで、チョット様子を見てみよう」なんて発想も許されない。迷わず撃てよ、撃てば分かるさということで、異国船打払令は「無二念(むにねん)打払令」とも言われた。
「開国無用、断固鎖国」の徳川幕府は、せっかく日本人の漂流民を運んできてくれたモリソン号にも砲撃して追い返す。
幕府の鎖国政策を批判する人間がいたら、捕まえて獄にぶち込む。
妥協とは堕落。わが国に開国の二文字はない。
1840年に、そんなガンコな幕府の態度を変える大事件が発生。
この年、アヘンをめぐって中国(清)がイギリスとの戦争を始めると、なんとアッサリ負けてしまった。
それで中国はイギリスへ多額の賠償金を支払い、香港をとられてしまい、さらに治外法権や関税自主権の放棄を認めるといった屈辱的な講和条約を結ばされる。
この敗戦を知った日本は、「奴は四天王(日中韓越)の中でも最弱、イギリスごときに負けるとは東アジアの面汚しよ…」と不敵に笑うことはなく、西洋の強さと恐ろしさの片鱗を知って顔面蒼白に。
それで「異国船打払令」を1842年に廃止して、遭難した船には補給を認める「薪水給与令」(しんすいきゅうよれい)を出す。
開国は認めないが、困っている異国船には薪水(燃料と水)・食料を与えることにすると、幕府は急に態度を変えソフト路線へ変更した。
日本は中国のことはよく知っていて、四天王(日中韓越)の中ではボスキャラなみの力のある国と思っていたのに、イギリスを相手にしたら雑魚キャラも同然。
漂流船に攻撃して船員を死なせるようなことがあったら、その国と重大なトラブルになりかねないから、この政策変更は正しい。
一番危険な状態というのは、危機的状況に気づかないことだ。
アヘン戦争のあとの朝鮮(韓国)がまさにそんな感じ。
中国が惨敗したというのに朝鮮に危機感はなく、意識も態度を何も変えない。変わるべきタイミングで、それができなかった。
当時の朝鮮は中国や日本(対馬)との交流はあっても、ヨーロッパの国とは一切チャンネルがなく、鎖国政策については日本以上に厳格だった。
アヘン戦争についての情報は中国側から、中国に都合のいいものばかり聞かされて、朝鮮はあの戦争を正しく把握することができなかった。それで「まー大したコトはなかった」と思ってしまい、いまそこにある危機に気づかなかった。
一方、日本はオランダから情報を入手できていたから、アヘン戦争で中国とイギリスがどんなふうに戦い、どんな結果に終わったのか正確につかんでいた。
それで、いま自分たちの置かれている状況はかなりヤバいということを知る。
強国であったはずの清の敗北は、さらにその先の東アジアへ進出するための西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを日本に悟らせた。
国体の変革が必要と思ったから、「異国船を見つけたら、迷わず大砲をぶっ放せ!」の異国船打払令から、「お困りですか?とりあえず燃料と水と食料をどうぞ」の薪水給与令へスイッチする。
アヘン戦争以降はオランダから毎年、「別段風説書」を出してもらって世界の動きを知ることができるようにした。この情報にはペリー来航に関するものや、海底ケーブル敷設といったものある。
こうして日本は国際情勢に注意を払い、国防について考えて続けたことが開国の決断や明治維新につながった。
一方、アヘン戦争で何が起きたか分からなかった朝鮮は相変わらず、中国を中心として外国を排除する華夷秩序(中華思想)の中にいて鎖国政策を続ける。
これじゃ、異国船打払令や蛮社の獄のころの日本と変わりなし。
そして19世紀後半になると朝鮮は開国に遅れ、近代化にも失敗するという取り返しのつかない事態を招いてしまう。
その原因のひとつが、朝鮮がリアル世界ではなくて、空想の世界に住んでいたということがある。
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