いまの日本で問題になるのは「ハンシャ」。
暴力団などの反社会的勢力は当然として、それとつながりのある人や組織も、いまの日本社会では嫌われ避けられている。
タイムスリップして1830年代の日本をみると、そのころは「バンシャ」が一部で問題視されていた。
ヨーロッパの学問(南蛮)を学ぶ集団(社中)は「蛮社」と呼ばれ、国学者や儒教(朱子学)だけを正統の学問としていた人から嫌われた。
このころ日本では西洋の船(異国船)がよく現れるようになる。
1824年には水戸の大津の浜にイギリス人12人が不法上陸し、水戸藩が捕まえて尋問する「大津浜事件」が起きたし、同じ年、薩摩の宝島にもイギリス人が上陸して、牛を略奪したことから島民との間で争いになりイギリス人1人が殺害された。(宝島事件)
こうした事件の影響もあって翌1825年、異国船を嫌った徳川幕府は「異国船打払令」を出す。
これは、幕府が交易を認めたオランダ船以外の西欧船を発見したら、すぐに砲撃して追い返せ、上陸する外国人は逮捕しろという外国船追放令のこと。
こんな感じに、幕府が西洋諸国に警戒心マックスだったころ、1837年に起こモリソン号事件が起こる。
嵐にあったか事故が起きたのか、漂流していた日本人の船乗りが外国船に救助されて、アメリカの商船モリソン号が彼ら7人を乗せて日本へやってきた。
この人道行為に対して(開国の意思もあったが)、モリソン号をイギリスの軍艦とカン違いした日本側は「異国船打払令」に基づいて砲撃して追い返してしまう。
このモリソン号事件の話を聞いて、蘭学を学び開国を期待していた高野長英や渡辺崋山ら「蛮社」の人たちはガッカリし、幕府の対応や鎖国政策について批判をおこなう。
「私はあなたの意見には反対だ。 でも、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」なんていう、表現の自由がなかった時代の日本で政府批判は許されない罪。
ということで1839年のきょう6月24日、渡辺崋山らが逮捕されて獄に入れられる「蛮社の獄」が発生。
当時の江戸幕府にとって、蛮社はまさしく「ハンシャ」だった。
その後、蟄居(謹慎)となった渡辺崋山は自刃し、脱獄に成功した高野長英はその後、役人に見つかって殺害された。
なんでこんな蛮社の獄が起きたのか?
「政府批判なんて認めんわ!」という言論弾圧だけではなくて、「異国船打払令」を出した幕府には開国論を封殺し、“鎖国政策”を強化させる狙いもあった。
幕府は「蛮社」を見せしめのように厳しく弾圧することで、第二第三の渡辺や高野を出さないようにし、世間の異国船への警戒がゆるまないよう気を引き締めた。
そんな言論弾圧と綱紀粛正が「蛮社の獄」って事件。
でも、「国なら開かん!」という幕府の鉄のような考えを吹き飛ばしたのがアヘン戦争で、これが日本と韓国の明暗を残酷なほどに分けた。
次回につづく。
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おもんない
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