「史上最悪の作戦」でググると、トップに表示されるのが「インパール作戦」。
これは太平洋戦争中の1944年に、ビルマ(ミャンマー)とインドの境のあたりで行われた日本軍の作戦のこと。
関連用語に「共食い」、「悲惨」、「生き残り」、「例え」といったネガティブワードが出てくるから、いまの日本人はあのインパール作戦について、かなり暗くてダーティーなイメージを持っていることがわかる。
「例え」というのは、現状を正しく把握できてなく、部下のことをまるで考えていない自己中な上司から、とんでもなく無茶な指示をされたとき、サラリーマンが「インパール作戦かよ」なんてつぶやくことをいう。
現代の日本でインパール作戦とは、実現不可能な命令の代名詞になっている。
長い日本の歴史の中でも、これ以上ヒドイものは見当たらないような「史上最悪の作戦」は、敵兵さえ同情したほど。
日本軍が撤退したあとの野戦病院に入ったイギリス兵は、そのときの様子をこう記す。
その死体のかたわらには、兵士の妻や子ども、恋人の写真、富士山や桜の花、梅の花の絵葉書、そして日記帳などが落ちていた。今際(いまわ)のきわに、思い断ち難く眺めていたと思われた。胸が締めつけられるような光景だった
「責任なき戦場 インパール (角川文庫)」
日本軍を攻撃するイギリス軍の戦闘機
インド北東部のアッサム地方にあって、ビルマに近い都市インパールはイギリス軍の主要拠点になっていた。
だけじゃない。
ここを制圧すれば、日本と戦っていた中国へ武器や弾薬などの軍事物資を供給する「援蔣ルート」を遮断することができるから、中国軍に対して優位に戦いを進められると日本は考えた。
*「援蔣」とは中華民国総統の蔣介石を支援するってこと。
援蔣ルートのひとつ「レド公路」
このインパール作戦は結果的に、大失敗とか惨敗とか、そんなヌルイ言葉では表現できないほど、日本軍は壊滅的なダメージを受け敗北する。
この作戦での日本軍の死者は3万人と言われることが多い。
でも、負傷して運ばれた兵も結局亡くなったりしたから、作戦の参加人数と残存兵の差の約7万2千人をインパール作戦の死者とする見方もある。
ここで大量の兵力を失ったことで、連合軍に対する日本のアジアでの優位は失われ南方戦線は崩壊。
この無謀な作戦が終わったのが1944年の7月3日だ。
インパール作戦では戦闘以前に、食べ物が無くなって餓死したり、マラリアなどで命を落とした日本兵がめっちゃくちゃ多かった。
だから本当の敵はイギリス軍ではなくて、まともな食糧補給も考えないまま大量の日本兵を送りこんだ人間とも言える。
具体的には、この作戦を立案・実行した中心人物の牟田口廉也(むたぐち れんや)だ。
牟田口廉也
無理・無茶・無謀の負の3要素がすべてそろった、呪われた作戦を決行した牟田口は、インド侵攻論(インパール作戦)についてこんなことを言っている。
私は蘆溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は拡大して支那事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争遂行に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳が立つであろう。
「失敗の本質 (ダイヤモンド社) 戸部 良一、寺本 義也その他」
1937年に発生した盧溝橋事件で連隊長だった牟田口は、中国軍との戦闘を許可した責任者だ。
この事件が日中戦争(支那事変)に発展したことは歴史の授業で習ったとおりで、やがてはインパール作戦の「援蔣ルートの遮断」という目的につながる。
牟田口としてはこのとき、自分が太平洋戦争の原因を作り出してしまったことに対する自責の念があった。周りからも、そんな目で見られることがあっただろう。
そんな個人的な負い目や動機から、作戦が成功したときの輝かしい功績に目がくらんで、実現不可能な無謀な作戦を決行してしまったという面はあったと思う。
そんな牟田口廉也はインパール作戦が失敗した1週間後の7月10日、幹部将校たちを集めてこう言ったという。
「皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。」
そして戦後、牟田口はBC級戦犯の一人として裁かれたものの、嫌疑不十分として釈放されて東京で余生を過ごす。
はじめはインパール作戦について反省の言葉を口にしていたのが、晩年になると、すさまじい手のひら返しをしやがる。
死去までの約4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた。同様の主張は、多くの機会で繰り返された。
結局このまま、自分の作戦で亡くなった兵士には謝罪することはなく、”部下の無能”を非難したまま死んでいった。
ネットでいう「清々(すがすが)しいまでのクズ」の体現者が牟田口廉也という男。
ミャンマーにある慰霊碑
インドで尊敬されるチャンドラ・ボースと日本軍のインパール作戦
私のせいではなく部下のせいです、秘書のせいです、いやはや、現代の政治家は軒並み牟田口の様。