名誉回復がまさかの朝敵:八月十八日の政変、からの禁門の変

 

幕末の日本にペリー率いる米艦隊がやって来て、ただの”パシリ”だったペリーではなくて、アメリカ政府から開国を要求された幕府は大騒ぎになる。
なんだかんだで幕府は開国を決意し、いくつかの港を開いて欧米との付き合いを開始する。
この対応には当然、賛否両論あった。
薩摩藩などは幕府の考え方を支持した一方、長州藩や公家の姉小路 公知(あねがこうじ きんとも)などは強硬な攘夷派で、すぐに港を再び閉じて外国を追い返せ!と主張する。
そんな姉小路が御所で暗殺されたって話は前回書いたとおりですよ。

【幕末の四大人斬り】京都御所でおきたテロ・朔平門外の変

 

このテロ事件で犯人とされた薩摩藩士の田中新兵衛は、何も語ることなく奉行所で自殺した。
姉小路がいなくなることで”メリット”があるのは薩摩藩で、新兵衛が自刃したことで薩摩はますますアヤシイ目で見られるようになる。
そんなことから京都御所の門の警備担当を外され、薩摩藩の人間は御所の門の内側に入ることも禁止された。
となると当然、薩摩藩やその支持を受けていた公家の影響力はドンドン小さくなっていき、過激な攘夷思想を持っていた三条 実美(さねとみ)のような公家や長州藩を中心に政治が動いていくことになる。
攘夷思想はあっても、今すぐ外国船を打ち払え!と思うほど極端ではなかった孝明天皇は、御所の出入りが許されるようになった摩藩に近づき、藩主の島津久光に「上京して姦人(三条らを指す)を排除せよ」という密勅を下す。

でも、そのころ久光は生麦事件のことでイギリスと揉めていて、鹿児島を離れることはできなかった。
それで薩摩は京都で会津藩とタッグを組んで、長州藩や三条実美ら急進的な公家を朝廷から排除する。
この「八月十八日の政変」によって、7人の公家が京都から追い出され長州藩へと落ち延びたことを「七卿落ち」という。
このとき三条実美は「I shall return.(必ず帰ってくる)」と言ったという話は聞かないが、日本軍にフィリピンから追い出されたマッカーサーと同じ気持ちだったことは間違いない。
アニメなら、ここで一期が終了するところ。

 

 

都から追い出された長州藩や三条実朝が、そのまま黙って屈辱に耐えているわけがない。
1864年に、新選組が長州や土佐藩の尊王攘夷派志士を襲撃する「池田屋事件」を起こすと、これで藩士を殺されたことがきっかけになり、会津藩主で京都守護職の松平容保の排除などを目的に長州藩は兵を挙げる。
が、幕府・会津・薩摩・新選組の連合軍に勝てるはずもなく、長州藩はすさまじい返り討ちをくらって撤退。
この戦闘が御所の門(禁門)のひとつ、蛤御門(はまぐりごもん)のあたりで行われたことから、「禁門の変」とか「蛤御門の変」と呼ばれている。
天皇のいる都の周辺(畿内)で起きた大名同士の戦いは、1615年の大坂夏の陣以来のこと。
禁門の変で京都市中の約3万戸が焼失したという。

「八月十八日の政変」で受けた汚名を返上し、名誉を回復するために戦ったら敗北し、畏れ多くも禁門に銃撃したことから、長州藩は「朝敵」となってしまった。
薩摩と会津に怒り心頭の長州藩士は履物に「薩賊会奸」と書いて、毎日それを踏みつけて歩いたという。
いまでも蛤御門には「禁門の変」で受けた弾痕が残っているんで(トップ画面)、御所に行ったら忘れずチェックだ。
天皇のいる御所に向かって発砲し、「朝敵」とされたことが長州征伐へとつながっていく。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。