【寛政異学の禁】なぜ朱子学限定? 江戸幕府が嫌ったコト

 

現代の日本で2日前の7月6日は「サラダ記念日」。
江戸時代の7月6日は1790年に「寛政異学の禁」がはじまって、江戸の昌平坂学問所で教えられるのは朱子学だけになり、それ以外の学問は禁じられた。

この朱子学というのは、支配者にとっては魅力的な学問だ。
朱子とは南宋時代の中国人・朱熹(しゅき:1130年-1200年)の尊称。
彼が構築した儒教の新しい学問体系が朱子学で、「聖人学んで至るべし」とこの学問を学ぶことで、理想的な”聖人”になることができるという。
机に向き合って筆をとり、一生懸命に勉強することで人間は聖人に到達することが可能だと。
現代の日本でも、「テストの成績の良いヒトはリッパな人間だ」なんてイメージはあると思う。
むかしの中国では聖人になることを目指し、朱子学を学ぶことが盛んになって韓国や日本にもそれが伝わり、大きな影響を与えたのだ。
上下の身分の違いをクッキリ区別することも、朱子学の大きな特徴になっている。
身分の上の人の言うことには従わないといけないという「君臣父子の別」の考え方は、統治する側にとっては最高に都合がいい。
そんなことで朱子学は徳川家康が認め推奨した幕府の正当な学問で、徳川綱吉が湯島聖堂を建てたときに全盛期を迎えた。

 

でも、徳川吉宗(1684年~1751年)がそんな哲学的で理念的な朱子学よりも、実際の生活に役立ち、社会を発展させるような実学こそ重要と考えるようになる。
聖人ではなく庶民目線だ。
そして日本では「読み・書き・そろばん」をマスターした上で農業、医療、経営などの実学を学ぶ風潮が広がっていく。
蘭学もそのひとつ。
吉宗が西洋書の輸入を解禁したことで、長崎を中心に蘭学ブームが起こり、ヨーロッパの自然科学の知識が日本でも広がっていく。
ただし、キリスト教に関する本は厳禁だ。
江戸時代の日本がほしかったのは西洋の具体的に役立つ知識や技術で、思想は「イラネ」って感じだったから。
特に日本人は医学を重視して学ぼうと思い、前野良沢と杉田玄白が西洋書を翻訳し、1774年に世に出した『解体新書』は日本の医療を大きく変えた。

農工商で役立つ実学や古学が流行したことで、朱子学の人気はダダ下がりとなり、一時は朱子学の聖地である湯島聖堂の廃止も検討されたほど。

 

すばらしい道徳心を持ち、正しい政治をおこなう人間こそがまさに聖人。
朱子学はそんなリッパな人間をつくるための学問で、それを学ぶ権力者や知識人にとっては「権威」となる。
ただそんな学問が盛んになったところで、実際の社会とはあまり関係ないし、民衆の生活も向上しない。
それよりも実際に役立つ実学を学んで、社会に広げていった方がみんなハッピーになれる。
江戸時代の日本で朱子学が廃れていって、実学が流行したのは必然だった。

でも松平定信が老中となると、彼が行った寛政の改革のなかで、低下した幕府の指導力や権威を取り戻すため1790年7月6日に「寛政異学の禁」を行ない、学ぶ学問を幕府の官学である朱子学オンリーにする。
そして、その学問を収めた優秀な人間を幕府の役人として取り立てるようになる。

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蘭学や実学など、朱子学以外の学問はNGだった。
といっても、それは江戸の昌平坂学問所だけでの話で、そこ以外の場所では相変わらず、蘭学や実学などいろんな学問が教えられていた。
ただ幕府に続く藩も出てきて朱子学は盛り上がったものの、結局その熱はあまり続かず、朱子学ブームは去っていく。
江戸時代の全体をみれば、寛政異学の禁の影響は、まぁ大したことはない。
実学の影響の方が大きいことは、前野と杉田が『解体新書』で日本語訳した「神経、動脈、盲腸」といった言葉がいまでも使われていることからも分かる。
日本では権威を求める学問よりも、生活に役立つ学問が盛んだったことが、中国や韓国(朝鮮)とは決定的に違っていた。
これが早く開国できたことや、明治維新での「西洋に学べ」ブームの下地になったはずだ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。