むかし中国を旅行していたとき、
「日本にとって中国は『先生』のような国でした。だから遣唐使は中国にあるものなら、全部学んで日本へ持って帰ったのです」
と、エラソーなことをフツウに言う中国人の日本語ガイドがいてイラっとした。
たしかに古代の日本は先進国である隋や唐を「師」のように見ていて、仏教や政治制度などを学んで吸収した。
遣唐使の中国での滞在費は唐の政府が出してくれたから(たぶん)、その太っ腹には感謝感激の至りだ。
でも日本人は取捨選択のフィルターにかけ、必要なものだけを受け入れて、そうでないモノにはノーサンキューと言った。
たとえば科挙。
隋から清の時代まで、約1300年間も行われてきたこの官僚登用試験を日本は採用せず。
日本では平安時代は貴族が世襲で、武家の時代になると、武士の子がそのまま武士となって政治をしていたから、こんな国家公務員試験は必要なかったのだ。
だがしかし、日本には科挙がなくても、学問吟味(がくもんぎんみ)という試験制度が江戸時代にあった。
このお菓子の名前みたいな試験の合格者には、父親の遠山 景晋(とおやま かげくに)がいる。
景晋は「遠山の金さん」でお馴染みの遠山 景元(とおやま かげもと)のお父上だ。
だから遠山の金さんは受験エリートの、「出木杉君」の子どもだったらしい。
さて、江戸の三大改革といえば享保の改革と天保の改革、それと18世紀に松平定信が行った寛政の改革がある。
このとき松平定信は「学問は朱子学だけね」とそれ以外の学問を禁止する。
旗本や御家人といった幕臣の最高学府である昌平坂学問所(湯島の聖堂)では、朱子学だけが教えられていた。(例外はあり)
で、朱子学をどれぐらいマスターしたかをチェックする試験として「学問吟味」が行われて、成績優秀者は役人に採用された。
更に湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけで行わせた。(中略)寛政4年(1792年)9月13日には旗本・御家人の子弟を対象として朱子学を中心とした「学問吟味」を実施させた。
このときから約60年後、アメリカから4隻のペリー艦隊がやって来ると、幕末の日本は大騒ぎとなる。
これまで同様、”鎖国”を続けるべきか、それとも国を開いて外国との交流を始めるべきか?
この国家的危機にうまく対応した若年寄や奉行の中には、学問吟味で選ばれた優秀な人が多くいた。
松平定信がこれを予知して、この試験制度を設置したのなら神。
学問吟味には朱子学を内容とする国家公務員試験という面もあったから、中国で行われた科挙と重なる部分はある。
でも19世紀にやってきた欧米列強との対応に失敗してしまい、中国は半植民地の状態になってしまった。
科挙は20世紀はじめに廃止され、その後、多くの中国人が日本に留学するようになる。
日本は古代の恩返しをしたワケだ。
> 「日本にとって中国は『先生』のような国でした。だから遣唐使は中国にあるものなら、全部学んで日本へ持って帰ったのです」
> と、エラソーなことをフツウに言う中国人の日本語ガイドがいてイラっとした。
???
なんでイラッとするのですか? 単なる事実でしょう。科挙試験だって、おそらく遣唐使はその制度を学んで日本へ持ち帰って導入しようとさえしたかもしれないが、結局、時の政権(奈良時代・平安時代)担当者が「不要」と考え導入しない判断をしたということです。
平安時代以降、中国からは得られませんでした。銅銭とか、三国志演義とか、モンゴル軍戦法の恐ろしさとか、それくらい? その時期、日本は原則として中国と縁を切って独自の道を進んで、よかったと思いますよ。
>単なる事実でしょう。
なぜそう言えるのでしょう?