いまの日本で「ALT」はもはや常識だ。
「アラニンアミノトランスフェラーゼ」とは酵素の一種でこの数値が基準値を超えると、肝臓あヤバい状態になっているかも。…というALTではなくて、ここでは日本の学校にいるALT(Assistant Language Teacher)、英語指導の補助をしている外国人のこと。
授業を行うのはあくまでも日本人の先生で、ALTはあくまでもその“補助”だから、1人で授業をすることはできない。
児童生徒は単純に、「英語を教えてくれる外国人先生」というイメージを持っているハズ。
酵素のALTも学校のALTもある一線を越えると、問題が生じることでは同じだ。
ALTは英語を教える能力があればOKで、国籍は問わないから、フィリピン人やポーランド人も南アフリカ人もいる。
ただ英米人でないと、知人のジャマイカ人のように日本人の先生から、「授業で生徒に話すときは、『h』をしっかり発音してください」と注意されることもある。
ジャマイカ英語では「h」を発音しないらしい。
「hour」はアワー、「honor」はオナー、「honest」はオネストなどと、フランス語に由来する英単語は「h」を抜いて発音する。
でも、ジャマイカ英語では基本的に「h」をスキップするから、たとえば授業で「How much」をオウ・マッチと言ってしまうと、教室の時間が停止して生徒全員が不思議そうな顔をする。
それで日本人の先生に何度か注意されたから、教科書を読むときには「h」に注意して、必ずそれを発音しようと心がけて授業にのぞんでいた。
でも、会話では「浜松」をついつい「アママツ」を言ってしまうから、習慣を変えることはなかなか難しい。
ジャマイカ英語には独特のなまりがあって、Bacon(ベーコン)がBeer Can(ビール缶)と同じ発音になってしまうらしい。
このジャマイカ人が日本人の先生から言われたことは、本人も納得しているからイイ。
でも日本の学校にいると、外国人には理不尽に感じることは多々あるらしい。
ロンドン出身のイギリス人は「can」を「カン」と発音するから、勤務していた中学校でそれを“問題視”された。
彼が「yes,I can」を「イエス、アイカン」、「Can I help you?」を「カナイ ヘルプユー?」と言うと、教科書にあった「キャン」で覚えた生徒は「あれ?」となる。
でも、キャンはアメリカ英語で、イギリスやオーストラリアではカンと言うから両方とも正解。
でも、生徒の様子を見ていた日本人の先生は「授業ではキャンと発音してください。」と要求する。
「いやだから、イギリスでは~」と言っても、”生徒ファースト”を自認する先生は譲らない。
でもこれは、「h」をスキップすることとはワケが違う。
そもそも英語はイギリスで生まれた言葉で、本来的にはイギリス人の英語が一番正しい。
これは彼のアイデンティティーに関わることだから、アメリカ人に合わせろという理不尽な要求には「ふざけるな」と。
同じ単語でも、国によっていろんな発音や表現があるのが英語の特徴で、日本の教科書のカタカナを読み上げるような外国人はいない。
でもその先生は「教科書どおり」を主張するから、上の先生(主任?)に裁定してもらうことになる。
すると、
「カンでいいよ。教科書の発音は多くの中のひとつで、現実にはいろんな言い方があって、どれも正解なんだから。英語は変化するもの、“生きている”ということを君が生徒に教えないと。」
という鶴の一声で終了。
フットボールをアメリカ式に「サッカー」と言うことも拒否する彼にとって、これはちょっとした死活問題だった。
イギリス英語を覚えたネパール人も、日本人の頭のカタサに頭を抱えた。
授業で黒板に「centre」と書いたら、「先生、スペルがちがいまーす」と生徒にツッコまれたから、「center」はアメリカ英語で「centre」はイギリス英語だからどっちでもいいと説明する。
すると授業が終わった後、日本人の先生から教科書ではアメリカの英語を使っているので、授業では君もそうしてほしいと言われた。
ということはセンターのほかに「colour」は「color」、「flavour」は「flavor」と書かないといけなくなる。
いや、それな理不尽だろう…と思ったけど、「郷に入っては郷に従え」のゴールデンルールからネパール人はその指示に従うことにした。
高校で教えていたアメリカ人があきれたのは「vi」の発音。
日本人の先生から世界史のテストで、ある生徒がリヴィングストンを「リビングストン」と書いたら「×」にされたという話を聞く。
教科書に書いてあるのは「ヴィ」だから、それ以外の文字はダメだと。
「Livingstone」なら確かにリヴィングストンのほうがいい。でも、「カエサル」みたいにまったく違う人物の名を書いたわけじゃないし、その生徒は答えを分かっていたはずだ。
それが「ビ」という表記で全否定されるのは、彼としては納得いかない。
かといってALTに文句を言う権限はないから、「it’s not my business(まあどーでもいい)」となる。
そしてこれはALTではなくて、英会話スクールで講師をしていたイギリス人から聞いた話。
授業で彼女が中学生の生徒にある英語表現を教えて、生徒が学校のテストでそれを書いたところ、正しいのにもかかわらず、「✕」をもらってしまった。
それは英語表現としてはまったく問題ないけれど、教科書にはないから。
*そのときの言葉を忘れたので、ここでは未来形の表現を使うことにする。
「I will play tennis tomorrow.」が正解の質問に、「I am going to play tennis tomorrow.」と書いたら不正解にされた。
何が間違っているのか、サッパリ分からなかった生徒が先生に聞きに行くと、「これは授業で習ったことを確認するためのテストです」と釘を刺さして先生はこうのたまう。
「will は教えましたが、 be going to はまだ授業に出てきていません。この表現は外国人と話をするのなら正解ですが、このテストでは✕になります」
これを聞いたイギリス人は、この誤答は自分のせいでもあるから、「はああ?それはナンセンスだ!まったく理解できないよ」と心底怒ってあきれ返った。
こんなふうに、教科書や自分の授業内容を絶対化する「原理主義者」みたいな先生はたまにいる。
授業で教えたやり方ではなくて、塾や家庭教師に習った方法を使うと、正解でも✕にするような。
ネットを見ると、理不尽な採点に怒る日本人はよくいる。
「3人の子どもにリンゴを4つずつあげました。りんごは全部でいくつでしょう?」
こんな小学校の算数の問題に、児童が「3×4=12」の計算式と「12個」を書いたらは不正解にされた。
授業では「個数×人数」で考えるように教えたから、「4×3=12」にしないといけない、というのが先生のロンリらしい。
自分の名前についても、まだ習っていない漢字はひらがなで書くよう指示して、「岸田 文雄」なら「岸田 文お」と子どもに書かせる先生もいた。
どこの国のどんな組織にも例外的な人はいるとしても、外国人から見ると、日本には頭の固すぎる人が多いかもしれない。
日本人でさえ理不尽に感じることを、外国人が理解して受け入れるのはまあ無理だ。
日本と外国(イギリス&アメリカ)の台風の話。語源や名前など。
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