「ドランド・ピエトリ」はすごく不幸で、とてもラッキーなイタリア人。
マラソン選手だった彼は1908年のロンドンオリンピックに参加して、体力がなくなり、フラフラになりながらも係員に助けられて1位でゴールした。
でも、係員の支援を受けたということで失格になって、金メダルは授与されず。
そんな「ドランドの悲劇」に多くの人が感動する。
イギリスのアレキサンドラ王妃は彼に銀のカップを授与したし、『シャーロック・ホームズ』で有名な作家コナン・ドイルは金のシガレットケースを贈った。
アメリカの作曲家からは「ドランド」という歌をプレゼントされて、世界的な有名人になった彼はプロのランナーになり、イタリアの内外のレースに出場して金を稼ぐことができた。
最近、日本の空港で飛行機に乗ったイタリア人がいて、ルールが謎すぎるとSNSで文句を言う。
搭乗する際に受けた手荷物チェックで、バナナを半分取られたことを根に持って「バナナはとても危ないですよ」と書き込む。
さらに、コーヒーを捨てられたけど、爪切りは問題ナシだったということで、「このおかしいルールをどうやって我慢できますか?」とネットで問う。
すると、イタリアから帰国したという日本人が、イタリアの空港内で購入したオリーブオイルを乗り換えの際に没収されたとコメント。空港で生ハムが問題になって、いま食べるか捨てるかの判断を迫られたという日本人もいた。
オリンピック競技や空港内ではとても厳しくルールが適用されるから、人間がそれに合わせないといけない。やや強引だけど、それが世界のアタリマエ。
でも、日本にいる外国人に話を聞くと、日本では日常生活でそれと同じとはいかないまでも、それに近いレベルで「ルール厳守」が求められることがあると言う人もいる。
これに対する見方はホントに極端で、規則やきまりをキッチリ守る日本人を「すばらしいデスネ!」と称賛する人がいれば、頭が固すぎてムカついたと不満を言う人もよくいる。
ルールはルールとしてあっても、その場の状況から、機転を利かしてそれを破ると「神対応」としてホメられる。それは江戸時代も令和のいまも同じこと。
ドランドさんのようにルール違反で失格になることもあれば、一生懸命さが人を感動させることもある。
同じ人間でも見る人によって評価は変わるし、同じコトでも状況が変われば良くも悪くもなる。
コロナ禍のいまは、ボクのまわりの外国人を見る限り、日本人の「ルール厳守っぷり」に感謝する人が多い。
先週、トルコ人、バングラデシュ人、モンゴル人、スリランカ人とファミレスに行ってご飯を食べた。
みんなドリンクバーを注文して、飲み物を何度も取りに行っていると、「みんなマスクをしているのがスゴイ」とバングラデシュ人が感心して言う。
その店ではドリンクバーを利用するとき、必ずマスクを着用するというルールがあったから、日本人の客はそれを守っていた。
浜松市民の民度がズバ抜けているワケじゃない。
これがフツウで、日本全国のファミレスで見られる光景だと思う。
でも、そのときいた外国人からするとアメージング。
テーブルでは友だちと楽しそうに会話をしていて、飲み物を取りに行くときには、ちゃんとマスクを着けるのを見ると「さすが日本人!」となる。
母国のヒトたちだったら、これは不可能。
店に「マスク着用」の決まりがあったとしても、いちいちマスクを着けたり外したりするのは激しく面倒くさいから、みんなそんなルールは知らなかったことにする。
期待できるマナーは黙って飲み物を注ぐことぐらいで、実際それもできるかアヤシイ。
飲み物を取りに行くのに、マスクをする律儀な人は皆無ではないけど激レア。
母国ではマナーやルールをよく守る一部の人が、日本ではアタリマエになっていて、日本で規則を守らない少数が母国ではアタリマエにいる。
トルコ人、バングラデシュ人、モンゴル人、スリランカ人から見ると、その点で日本では世界が逆転している。
コロナ禍のいまは、日本人のルール厳守っぷりがとても頼もしいし安心できる。
でもそれが過ぎてまた元の日常が始まると、「細かい…」とたまに思うようになる。
そんな話をこのまえサイゼリヤで聞いた。
反論できる?「日本人が、外国人の日本料理をインチキと言うな!」
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