日本の正反対:多様性ありすぎで、崩壊したユーゴスラビア

 

1929年のきょう10月3日、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」が国名を「ユーゴスラビア王国」に改めた。
*ユーゴスラビアとは「南スラヴ人の国」って意味。
この王国を前身として、1943年に誕生したユーゴスラビア民主連邦(~1992年)は独特な国でよくこう言われた。

「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」

それぞれを細かく見ると旧ユーゴスラビアは、
イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア
の7カ国と国境を接していて、
スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロの6つの共和国で構成されていた。

さらにセルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人の5つの民族がいて、セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語の4つの言語があった。
そしてカトリック、東方正教、イスラム教の3つの宗教、ラテン文字とキリル文字の2つの文字を持っていた。

これが1つの国家として存在していたのは、いまから考えると不自然だったのかもしれない。
かつてのユーゴスラビアは、結局はこの6つの国に分離していまに至る。

スロベニア、クロアチア、北マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ
*コソボを独立国と見るかどうか判断が分かれる。

旧ユーゴの面積は約25万km² で、北海道・九州・四国などを除いた日本本土(約23万km²)よりもちょっと大きい程度だ。
そんな小さい国に民族・宗教・言語を「全部盛り」にした状態でも、戦後数十年の間、1つの国としてまとまっていられたのは、チトーという超カリスマがいたから。
第二次世界大戦中、ナチス=ドイツやイタリアなどの枢軸国の支配されていたユーゴスラビアで、チトーは人民解放軍(パルチザン)の総司令官として抵抗運動を指揮する。
戦後、終身大統領になった彼は独自の社会主義建設を指導し、ユーゴスラビアはその下で何とか1つの国として存在できていた。

 

ヨシップ・ブロズ・チトー(1892年 – 1980年)

 

でも、絶対的リーダーであるチトーが1980年に亡くなると、それはユーゴスラビアにとって「終わりの始まり」となる。
この後から民族主義が台頭して国内は分裂していき、旧ソ連が崩壊するとユーゴスラビアはこんないくつものユーゴスラビア紛争がぼっ発し、最終的には6つに解体された。

1991年:スロベニア独立戦争とクロアチア独立戦争
1992年:ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1998年:コソボ紛争
1999年:プレシェヴォ渓谷危機
2001年:マケドニア紛争

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争があった1995年には、8000人以上のボシュニャク人(イスラム教徒)がセルビア人に虐殺された。
この「スレブレニツァの虐殺」は第二次世界大戦以降、ヨーロッパで起きた最大の大量虐殺だ。

「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」

国土の大きさを考えると、こんなユーゴスラビアは世界史レベルで見ても多様性にあふれた国だった。
この多様性はもう、違いを楽しむとか、違いは強さになるといったレベルを超えて非現実的。ユーゴスラビアは結局は1人のカリスマ的リーダーがいなくなると、すぐに地獄の門が開かれるような不安定な国だった。

日本はこの真逆。
歴史的にはおおよそ、

「1つの国境(海)と宗教(神仏習合)、2つの言語と民族(大和民族とアイヌ)」

と、とってもシンプルに形成されてきた。
*日本政府は琉球民族を先住民と認めていないので、ここでは触れなかったが、国連は琉球民族を先住民としている。
チトーのような個人ではなくて、皇室という伝統が国民をまとめてきたから、日本は多様性には乏しくてもまとまりがある。
だから旧ユーゴのように、何かのきっかけでバラバラに分裂する気配も無い。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。