【忘れない】海外で国葬された2人の日本人 

 

きょう10月7日は、1950年にマザー・テレサが神の愛の宣教者会を設立した日。
これは、もっとも貧しい人々のために働くことを使命とするカトリックの修道会で、いまでは各国に拠点が置かれる世界的な組織に成長した。

さて先月、エリザベス女王と安倍元首相の国葬が行われたことは記憶に新しい。
国家にとって特別な功績を残した人物が、国葬で送り出されることは各国である。
王族や政治家だけではなく、ブラジルではF1レーサーのイルトン・セナ、ジャマイカではレゲエ歌手のボブ・マーリーがその対象となった。
マザー・テレサが亡くなった時、インド政府は彼女のために国葬を行った。
外国人がその対象となるのはきわめてマレ。
海外でそれぐらい高く評価された日本人がいるので、同じ日本人としてぜひ覚えておこう。

 

・安達峰一郎(あだち みねいちろう:1869~1934)

明治2年にいまの山形県で生まれた安達峰一郎は、すくすくグングン成長していき(たぶん)、東京大学に入学する。
そこで英語、フランス語、イタリア語をマスターした彼は卒業後、外務省に入り外交官となる。
1905年には日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)締結に参加し、1920年の国際連盟の総会では日本代表代理になるなど世界を舞台に活躍した。
そんな安達はアジア系としては初めて、常設国際司法裁判所の所長を務めることとなる。
彼が亡くなると世界平和に貢献したことが称えられ、国際司法裁判所の本部のあったオランダで政府によって国葬が行われた。
そんな彼にはこんな“伝説”がある
1929年のハーグ対独賠償会議でフランスとイギリスが対立した際、「アイツラ何とかしてくださいよー」と安達は調停を依頼された。
そこで彼は日本流の茶会を開き、両国代表を招いて和解させ、国際会議を成功に導いたという。

 

安達峰一郎

 

・近藤常子(こんどう つねこ:1893年 – 1963年)

明治26年に岐阜県で生まれた近藤常子は周囲の大人から、「つねちゃん」と呼ばれ常にかわいがられていた。(いやしらんけど)
日露戦争後に中国東北部へ移住し、第一次大戦中は野戦病院で看護師として勤務する。
その時、捕虜で患者のユーゴスラビア出身の軍人イワン・スクシェクと出会うと、フォーリンラブしてそのまま結婚。
第一次大戦が終わると、夫とユーゴスラビアへ渡る。
ユーゴに初めて移住した日本人女性となった常子は第二次世界大戦中、赤十字の看護婦となって活躍し、後に赤十字最高勲章を受賞する。
終戦後、夫を亡くしても現地にとどまって、積極的に日本文化を広めた。
その功績が認められ、近藤常子が1963年に死去すると、ユーゴスラビア政府によって国葬が営まれ、多くの市民が参列したという。

 

安達峰一郎も近藤常子も日本での知名度はかなり低いと思う。
でも外国で、国家レベルでその死に敬意を払われた日本人は本当に少ない。
ということで、ミネくん・ツネちゃんは覚えておこうか。

 

オランダで行われた安達峰一郎の国葬(1935年)

 

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。