「変わらないためには、変わり続けないといけない」
和菓子屋でも国家でも、常に変革していかないと生き残ることはできない。
幕末に”鎖国”という眠りから覚めて、国際社会の仲間入りした明治日本は、欧米列強をモデルに社会のあらゆる面を改革していく。
そんな明治維新のなかで1869年のきのう10月23日、東京~横浜間の電信線架設工事に着手して(電信電話記念日)、翌年から日本で電信サービスが始まった。
これによって、江戸時代のように飛脚が全力疾走する必要はなくなって、遠い場所でも一瞬で情報の伝達ができるようになる。
江戸と明治の境い目である当時の日本には、こんな新しい技術を歓迎する人もいれば、昔の日本社会を愛する人もいた。
「ガイジン嫌い」だった幕末の攘夷派の武士と同じで、明治時代になっても「西洋化という”毒”で神聖な日本の国土が穢れてしまう」と苦々しく思っていた勢力があった。
神州(日本)に電線が登場すると、西洋化の象徴と見なした彼ら攘夷派はそれを激しく嫌って、電線の下を通るときには頭上に扇子をかざしたという。
攘夷派の人間などは、いやしくも神州の空にキリシタンの針金を張るなどもってのほか、というのでその下を通るときには「汚らわし」と扇子をかざして歩いた
「うたでつづる 明治の時代世相 図書館刊行会」
神道の信仰心がとても強く、全身全霊で西洋化に反対していた「神風連(敬神党)」の人たちも、電線の下を通るときにはこれと同じことをしていた。
1876年(明治9年)の3月に明治政府が廃刀令を出すと、「武士の魂を取り上げるつもりかっ!」と神風連は激怒して、きょう10月24日、政府軍のいた熊本鎮台を襲撃し兵士を殺害した。
この「神風連の乱」で熊本鎮台の司令官や熊本県令も殺される。
でも、明治政府軍が駆けつけて本格的な反撃が始まると、神風連では歯が立たず、すぐに壊滅状態となる。
ちなみに熊本鎮台の司令官・官種田政明が殺害された時、その場にいた女性が急いで熊本電信局へ行って、「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」(旦那はいけない、私は手傷)という電報を東京にいた親へ送信した。
少ない文字数で的確に内容を伝えたこの文章は、電報文体の良い例として新聞で取り上げられて、日本で電報が広まるきっかけになった。
神風連の乱の錦絵
武士をもはや「イラナイ子」扱いする明治政府。
そんな政府に強い不満や怒りを持っていた士族はほかにもいたから、この神風連の乱が彼らの心に火をつけることとなって、同じ年に秋月の乱や萩の乱が発生し、翌76年には西郷隆盛による西南戦争がぼっ発。
明治初期の不平士族による反乱は神風連の乱から始まって、日本最後の内乱である西南戦争で終結した。
東アジアにまで迫ってきた欧米列強に対して、日本が独立国の地位を守るためには、西洋の先進的な文化や文明を吸収するしかなかった。
それに反対し、電線の下を通るときには「汚らわし」と扇子をかざしたような、時代遅れの人たちはもう必要ない。そんな武士のメンタリティーは、新生日本には”ジャマ”だから排除するしかない。
内乱が起こるほど大胆な改革をしたからこそ、日本は外国に植民地支配されることなく、日本であり続けることができたのだ。
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