かつて東南アジアの大部分を支配していたカンボジアのクメール王朝。

900年ごろの版図
でも、しだいに弱体化していって国土は小さくなり、東西の海岸部分も失っていまではこんなハート型になった。

前回そんな記事を書いてみた。
偉大な王朝や帝国も、華麗なる一族もいつかはおとろえ消え失せる。
「人の夢」と書いて「儚(はかな)い」と読むのだ。
人の世のはかなさや無常を描いた平家物語は、日本人にとって永遠の古典となっている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もついにはほろびぬ、ひとえに風の前の塵におなじ。」
どんな繁栄や栄光も終わってみれば春の夢のようなもの。
クメール王朝もまさにこれ。
さてここに、「祇園精舎」(ぎおんしょうじゃ)ということばがある。
ということで今回は、「祇園精舎と間違えてアンコールワットへ行っちゃった、超親孝行な江戸時代の日本人」について書いていこうと思う。
まず祇園精舎というのは古代インド・コーサラ国にあった僧院のことで、お釈迦さまがここで人々に仏教を伝えていた。
祇園精舎
仏教で修行僧が大きな僧院を建てて住んだ最初の事例である。玄奘が訪れた7世紀にはすでに荒廃していたという。
「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」
仏教伝来とともにこれも日本で知られるようになり、江戸時代には将軍・徳川家光が祇園精舎の視察を命じたこともあった。

祇園精舎があったとされるところ(インドのウッタル・プラデーシュ州)
江戸時代が始まったころ、東南アジアへ移住する日本人がたくさんいて、彼らはカンボジア、フィリピン、ベトナム、ビルマなどで日本町を形成した。
日本町
17世紀初期、東南アジア各地に形成された日本人居留地。自治制をとり、数百~数千人が居住。
「日本史用語集 (山川出版)」
山田長政がリーダーをしていたアユタヤ(タイ)の日本町はとても有名だ。
当時、カンボジアの日本人町に住んでいた人たちの間で、「祇園精舎って、アンコール・ワットのことだってばよ」とナルト風に言ったかどうかは知らないけど、アンコールワットを祇園精舎と信じる人がでてきて、やがてその話は日本にも伝わった。
それを聞いて「そうだ 祇園精舎、行こう。」とJR風に思ったかは知らないけど、祇園精舎を参詣しようとしてアンコール・ワットへ行ってしまう残念な日本人が多数あらわれた。
そんなウッカリ屋さんの中に、平戸藩士の森本一房(もりもと かずふさ:生年不詳 – 1674年)という日本人がいる。
森本は亡くなった父と年老いた母のために、1632(寛永9)年に祇園精舎(実はアンコールワット)までやって来て、お祈りをささげて4体の仏像を奉納したという。
彼はこのとき、アンコールワットの柱に墨でこんな落書きをした。
寛永九年正月初而此所来
(寛永九年正月初めてここに来る)生国日本/肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫/一房
(生国は日本。肥州の住人藤原朝臣森本右近太夫一房)御堂心為千里之海上渡
(御堂を志し数千里の海上を渡り)一念/之儀念生々世々娑婆寿生之思清者也為
(一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるために)其仏像四躰立奉者也
(ここに仏四体を奉るものなり)摂州津池田之住人森本儀太夫
右実名一吉善魂道仙士為娑婆
是書物也
尾州之国名谷之都後室其
老母亡魂明信大姉為後世是
書物也寛永九年正月丗日
まあ、すべてが壮大なカン違いなわけなんだが。
ここで一句、
「落書きも 数百年後は 宝もの」
森本の落書きはいまでもアンコールワットに残っていて、日本人観光客には必見のスポットになっている。

「日本」と書いてあるように見える。


もしアンコールワットに行くのなら、江戸時代の侍のかん違いと信仰の跡も見てみよう。

17世紀にアンコールワットを訪れた日本人・島野兼了(森本一房という説もある)が描いた「祇園精舎図」(アンコールワットの実測図)。
おまけ
アンコールワット観光の拠点・シェムリアップではこの宿がおススメ。
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