動機は善でも相手のことを考えずにすると、ただの押し付けになって、結果として悪に終わることもある、というのが今回の話。
10月14日は1943 年に、フィリピンで第二共和国が成立した日だ。
当時は太平洋戦争の真っ最中で、日本軍は米軍とのフィリピンの戦い(1941年~1942年)に勝利し、マッカーサーを追い出してフィリピンを占領下においた。
このとき日本軍は「圧倒的じゃないか、我が軍は!」と言いたくなるような浮かれ気分だったと思われるが、その後すぐに米軍がガダルカナル島の戦いに勝ち、戦局が逆転して日本軍は劣勢になる。
アメリカの植民地だったフィリピンは、自由を得て、日本の支援を受けながらホセ・ラウレルを大統領として、1943年10月に第二共和国として独立国となった。
そもそも日本が戦争をはじめた理由は何だったのか?
それは、東南アジアを支配していた欧米諸国と戦って駆逐し、これらの国々を独立させ、日本をリーダーとする大アジア経済圏(大東亜共栄圏)をつくること。それで当時の日本は大東亜戦争と呼んでいた。
フィリピン第二共和国の実現はその理念にもとづいて行われたもので、翌月11月、ラウレル大統領は東京で開かれた大東亜会議に参加した。

東京の大東亜会議に参加した各国首脳。
左からビルマのバー・モウ、満州国の張景恵、中華民国の汪兆銘、日本の東條英機、タイのワンワイタヤーコーン、フィリピンのホセ・ラウレル、自由インドのスバス・チャンドラ・ボース。
「これはアジアの解放戦争だ」と日本軍の兵士は思ったかもしれないが、厳しい現実が待っていた。
日本軍は押しかけるように東南アジアの国々へやって来て、現地を戦場にし、多くの人が巻き込まれて命を落としたから、日本軍を恨む人は多かった。
歴史の「タラレバ定食」を言い出したらキリがないけれど、もし日本が戦争に勝っていれば、アジア諸国に本当の独立をもたらしたかもしれない。しかし、実際には日本は負け戦をし、現地の人々に重労働を強いるなどして苦しめてしまった。
日本軍が来た当初、人びとは「これから自由になって生活が良くなるかもしれない」と期待していたかもしれないが、その期待は失望に変わった。
フィリピンでは「マニラ虐殺」が起き、今でもそのことを恨んでいる人がいる。
太平洋戦争の末期、石川 欣一(いしかわ きんいち)という新聞記者が日本軍と行動をともにし、敗戦を知って米軍に降伏した。
捕虜となって、米軍兵に守られながらトラックで運ばれているとき、彼はフィリピン人の強い憎しみを感じた。
お前等は首を斬られて死ぬんだといってるんだろう。バラバラと石や土塊が投げられ、警乗兵は銃を構えた。この時ばかりでなく、米国兵は実によく我々を守ってくれた。
「比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦 (石川 欣一)」
先の大戦から80年が過ぎたいま、フィリピンの人たちは過去の日本を恨んでいるかもしれないが、現在の日本にはとても好意的だ。
それはこの動画を見ればわかる。石を投げられた日本兵と違い、首相は日の丸を持った市民の熱烈歓迎を受けている。

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