台湾の「親日っぷり」は世界最高レベルにある。
サッカーW杯で日本を応援するため、天気予報のコーナーでお天気お姉さんが、日本代表のユニフォームを着て解説をする姿は日本でも想像できない。
台湾の人たちが日本に好意的な理由に、統治時代(1895年〜1945年)を冷静に見て、近代化に貢献したといったポジティブな評価をしていることがある。
もちろん、あの時代には「闇面」があったことは忘れていけないが。
これから、台湾では「神」レベルで尊敬されているのに、祖国ではほぼ無名の日本人を紹介しよう。
彼は日本でもおなじみの「タピオカミルクティー」にも関係している。

新井 耕吉郎(あらい こうきちろう:1904年 – 1946年)
最近、ある台湾人がSNSで日本人に向けて、『日台の絆』と題してこんなメッセージを投稿した。
「皆さん!! ご存知ですか? 台湾では日月潭紅茶を知らない人がほとんどいないんですよ。」
日月潭(リーユエタン、にちげつたん)は台湾のど真ん中にあって、現在では人気の観光スポットになっている。
ここは有名な「日月潭紅茶」の産地だ。
農業技師の新井耕吉郎がその土台を築き、現地では、100年以上が過ぎても感謝され、語り継がれているのだが、新井を知っている日本人は本当に少ない。
というか、ほぼ皆無では?
日本が台湾を統治していた時代、台湾へ渡った新井耕吉郎は、紅茶の生産地として「日月潭」に目をつけた。
その背景には、当時、世界的に紅茶の需要が増大していったことがある。
日月潭のあたりは標高が高く、気候は冷涼で湿度が高いため、新井は紅茶の栽培には最適だと確信。
彼は現在の「茶業改良場魚池分場」を開設し、ここでインドの「アッサム種」の茶樹を植え、紅茶の栽培を開始した。
新井は台湾各地からアッサム種と台湾の原種をかけ合わせ、独自の「台湾紅茶」を作り出すことに没頭した。
太平洋戦争という厳しい環境の中でも、彼は台湾に合った紅茶を開発する努力をつづけた。

終戦後の決断と、台湾紅茶に捧げた生涯
1945年に日本がアメリカに降伏すると、台湾は中華民国に接収されることとなる。
新井は役職を解任されても帰国を拒否して台湾に残り、紅茶作りを続けることにした。
そんな情熱を持ったまま、彼は戦争が終わった翌年、マラリアによって42歳で亡くなった。
現在、台湾人がよく見る中国語のウィキペディアには、新井耕吉郎の項目が作られている。
そこには、「新井は台湾紅茶に生涯を捧げたが、彼だけが尽力したわけではない。新井の妻は劣悪な環境のため台湾で亡くなり、長男は肺炎で台湾で亡くなった」という記述がある。
「新井耕吉郎一身奉獻給台灣的紅茶,不僅他個人鞠躬盡瘁。全家在台打拚這段期間,新井的妻子也因環境惡劣而在台灣過世,長子則因肺炎在台灣過世。
(※妻は日本に帰国したという情報もあって、正確なところは分からない。)
台湾の人たちが新井の意志を受け継ぎ、世界的に有名な高級茶「日月潭紅茶」を完成させた。
新井を知る台湾の人たちは彼の功績に敬意を示し、茶園に記念碑や銅像を建てることにした。彼は「台湾紅茶の開祖」「台湾紅茶の父」「守護神」と呼ばれ、今も定期的に参拝する台湾人もいる。
「日台友好」のシンボル的な人物で、日本の歴史の教科書に載せてもいいレベルなのに、祖国でそんな動きはない。
台湾の褒め言葉「日本精神」とは?
台湾では高く評価されているのに、日本では「絶対」と言っていいほど教科書では紹介されないものに「日本精神(リップンチェンシン)」がある。
統治時代に生まれて日本式の教育を受けて育ち、後に台湾総統となった李登輝氏は、「勇気・誠実・責任感・勤勉」といった美徳をまとめて「日本精神」と呼んだ。
この精神があったからこそ、台湾は近代的な社会をつくることができたという。
統治時代に台湾へ残したもの 建物、インフラ、そして「日本精神」
「嘘をつかない」「約束を守る」「責任感が強い」「私利私欲から離れ、公のために一生懸命になる」
新井耕吉郎はこんな「日本精神」の塊のような人だった。
そうでなかったら、彼が亡くなった後も、台湾の人たちがその恩を忘れず、「台湾紅茶の父(守護神)」として尊敬することはない。
台湾に人生を捧げた彼も、今の台湾の人が日本に親しみを感じてくれる大きな理由の一つになっている。
日本の教科書には、そんな偉人について一行も載っていない。
しかし、日本人として新井耕吉郎は記憶や歴史から消してはいけない人物だ。
いつか台湾へ旅行に行く日が来たら、ぜひ日月潭を訪れて、彼が人生を捧げた紅茶を飲んでほしい。
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