台湾の食堂でご飯を食べて、「このお米、日本のお米と似ていておいしい!」と思ったら、それは蓬萊米の可能性が高い。
蓬莱(ほうらい)というのは、古代中国ではるか東の海(海中)にあって、不老不死の仙人が住むと信じられた理想郷のこと。
そんな縁起が良い名前がつけられた台湾の蓬莱米は、約100年前、日本人によって生み出された。
1895年、日清戦争に勝利した日本は清から台湾を譲り受け、この島を統治することとなる。そんな時代を背景に、磯永吉(いそ えいきち)は東北帝国大学農科大学を卒業した後、1912年に台湾へわたり、現地の農事試験場の技術者として働いた。
ちなみに、東北帝国大学農科大学の前身が「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」のセリフで有名なクラークがいた札幌農学校で、現在では北海道大学農学部になっている。
磯 永吉(1886年 – 1972年)
永ちゃんは台湾の地で、「成り上がってやる!」と思ったかは知らないが、その後40年以上も、台湾米の品種改良に取り組むこととなる。
もともと台湾の米はインディカ米で日本人の口には合わず、本土へ持って行っても安値でしか売れなかった。しかし、台湾は気温が高くて日照時間も長く、日本の米(ジャポニカ米)を生産することは難しい。それが永吉たちの努力によって、台湾でも日本の米が生産できるようになった。
1926年に、台湾総督の伊澤多喜男がそれを「蓬萊米」と命名する。
永吉はその後、品種改良を繰り返し、当時は不可能と言われたインディカ米とジャポニカ米の交配に成功し、台湾の風土に合った質の高い新しい米を生み出した。これも蓬萊米と呼ばれるようになり、やがてその中から、「台中六五号」という優秀な品種が出て台湾全土に植えられた。
1945年に日本がアメリカに降伏し、台湾から撤退することになった時、永吉は中華民国(台湾)政府から、台湾に残って農業の指導をするよう要請される。
永吉はそれを快諾し、台湾に知識や技術を伝え続け、1957年(昭和32年)に帰国した。
中華民国は彼の功績をたたえ、最高位の勲章を授与し、毎年1200kgの蓬莱米を永吉に贈ることを決めた。(法律上の問題で、実際には米を換金して渡していたらしい。)
戦後に台湾で出版された本では、「台湾に影響を与えた50人」として12人の日本人を挙げ、明治天皇、後藤新平、八田與一らとともに磯 永吉を選んでいる。
蓬莱米の命名から88年目になる2014年には、台北でそれを記念する式典が開かれた。
現在の台湾で蓬萊米はポピュラーなお米になっていて、スーパーへ行けば簡単に手に入る。
知り合いの台湾人が店でどのお米を買うか迷ったとき、「日台の絆」を思い出し、磯永吉技師への感謝の気持ちから蓬萊米を選んだと言っていた。
個人的に台湾の食堂でご飯を食べて、「日本のお米と同じレベルでおいしい」と思った記憶がある。今から思えば、あれはきっと蓬萊米だ。
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