韓国の歴史において最大級の悲劇は、1910年の日韓併合だ。
なぜ、韓国は国を失ってしまったのか?
圧倒的な軍事力を持つ外国に攻め込まれたから、というわけではない。
その大きな原因の1つは、「強敵と書いて“とも”と読む」という、少年ジャンプのような展開がなかったからだ。
今回は、「国は内側から崩壊する」というテーマで、幕末の日本と対比しながら、朝鮮王朝のドロドロの権力闘争に迫っていこう。
3月7日は「ライバルが手を結ぶ日」
日本は3月7日は、「ライバルが手を結ぶ日」という記念日になっている。
1866年のこの日、それまで憎しみ合っていて、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩が坂本龍馬の仲介で「薩長同盟」を結んだ。
当時、日本には欧米列強がアフリカやアジア各国を侵略しながら、東アジアに迫っていた。
清がアヘン戦争(1840ー1842年)で敗北すると、巨額の賠償金を払わされ、香港をイギリスに奪われて弱体化した。
幕末の日本を救った「植民地化への危機意識」
歴史作家の司馬遼太郎によると、幕末の日本人は藩や立場の違いを超えて、次のような思いで一致していた。
日本がヨーロッパに征服されて植民地にされるかもしれないという、この時代の共通した危機意識があった
「『明治』という国家 (NHKブックス)司馬遼太郎」
・身内で争っていたら、外国人に日本を乗っ取られるかもしれない。
・この国難に、日本の未来を徳川幕府にまかせることはできない。
そんな危機感から、薩摩と長州というライバルが1866年に手を結び、現在では記念日になっている。
朝鮮王朝の「内輪もめ」
これと対照的なのが同じ時代の韓国。「奇跡のタッグ」が実現することなく、国は滅亡した。
19世紀後半、朝鮮王朝の政府内では、壮絶な内輪もめをしていた。それは舅(しゅうと)と嫁による「マウント合戦」だ。
ここでは、次の3人を押さえておこう。
大院君: 国王・高宗の父(舅)。考え方は江戸幕府に似ていて、強硬な「鎖国」政策を支持し、伝統的秩序の維持を目指していた。
閔妃(みんぴ): 高宗の妻、つまり王妃。考え方は明治政府と似ていて、開国を推進し、近代化を目指した。
高宗(こうそう): 朝鮮の第26代国王(在位:1863年 – 1897年)。父と妻の板挟みになり、苦悩していた。
大院君と閔妃の考えは情勢の移り変わりで変化したが、高宗は最後まで2人の争いを止めることができなかった。
権力への執着と「暗殺合戦」の始まり
大院君と閔妃では価値観や考え方は「真逆」だったが、権力に対するすさまじい執着では共通していた。そして2人とも国を私物化していた。
大韓帝国が国を失った大きな原因として、「大院君(舅)と閔妃(嫁)の、身内どうしの権力争い」は見過ごせない。
大院君も閔妃も、朝鮮の主権を維持しようとしていたことは間違いない。それが消えれば、自分が立場を失い、権力を保てなくなるからだ。国のカネを使って、好き勝手なことができなくなってしまう。
鎖国派の舅 vs 開国派の嫁
大院君は息子の高宗が成人したあとも、摂政として実権を握り続けていた。
日本の歴史でたとえるなら、天皇が上皇となったあと、「院政」で実際の政治をおこなっていたようなものだ(大院君政権)。
権力を握ろうとしていた閔妃や彼女の一族(閔氏)にとっては、大院君は邪魔でしかない。
鎖国派の大院君と開化派の閔妃では、価値観が根本的に合わなかった。
大院君は、朝鮮がフランスとアメリカの軍と衝突した際、両軍を「撃退した」と思い込み、全国に斥和碑(せきわひ)を立てさせる。
そこには、西洋との戦いを否定する者は「売国なり」と刻まれていた。
【1871年の明暗】日本が近代化に成功し、朝鮮が失敗した理由
大院君は、朝鮮は西洋諸国より強いと誤解し、鎖国政策をますます強めていったが、閔妃は開国するべきだと考えていた。
血で血を洗う復讐劇!激化する権力抗争と国の弱体化
さらに、2人とも権力欲を持っていたから、いつか衝突するのは必然。
こうした政治路線の違いに、背後にいた両勢力の権力抗争がからみ合って対立は激化していく。
1873年、閔妃は大院君を追放することに成功し、彼の勢力を失脚させた。代わりに、自分の一族(閔氏)の人間を高官に取り立て、朝鮮の事実上の「支配者」となった。
しかし、これで諦める大院君ではない。
このあと、閔妃派と大院君派のあいだで、互いに相手勢力の人間を殺し合う。
義兄を爆殺された閔妃は、その報復として、大院君に関係する人間を捕まえ、拷問で激しい苦痛を与えた後に獄死させた。
この人物は犯人ではなかったから、閔妃の復讐感情の犠牲者にされたと言える。
閔妃派と大院君派による「暗殺合戦」がはじまり、国は弱体化した。
壬午軍乱と乙未事変:外国を巻き込んだ悲劇
攘夷政策をとっていた大院君が政界から消えると、開国派だった閔妃は日本と手を組み、日本から軍事顧問を招いて軍の近代化に取り組んだ。
不満爆発! 旧式軍隊による「壬午軍乱」
しかし、この動きは、それまでの朝鮮軍(旧式軍隊)が「放置」される結果につながる。さらに、朝鮮兵への賃金が支払われなかったこともあり、彼らの不満はどんどんたまっていく。
大院君がこの状況を見て「今がチャンスだ!」と、閔妃派の排除をもくろむ。
1882年に、大院君の扇動などによって朝鮮兵の反乱がおき、閔妃派の要人や日本人が殺された。
これを「壬午(じんご)軍乱」という。
閔妃は国内にいた清の実力者・袁世凱(えんせいがい)の力を借り、何とか逃げ出すことに成功した。彼女は運を持っていた。
大院君は政敵を政界から排除し、政治の権力を奪い返したかに見えたが、そううまくいかなかった。袁世凱が激怒し、清に連れ去り、大院君を幽閉してしまう。
「壬午軍乱」の結果、閔妃は親日的な態度を変えて清に頼るようになる。

朝鮮兵の襲撃を受け、船に乗って逃げ出す日本人の一行(壬午軍乱)
「乙未事変」の結末
そして、最後は乙未事変(いつびじへん)によって、大院君と閔妃の血で血を洗う戦いは終わりを迎える。
清から解放され、朝鮮へ戻ってきた大院君は、朝鮮への進出をねらっていた日本と手を組むことにした。
こうして1895年に、三浦梧楼が計画し、朝鮮人訓練隊と日本軍守備隊などが今のソウルにある王宮(景福宮)に乱入し、閔妃の息の根を止めた。
19世紀後半に朝鮮を旅行し、閔妃とも親交があったイギリス人女性のイザベラ・バードは、そのときの様子をこう書いている。
1895年10月8日、大院君は、日本公使の三浦梧楼子爵の命令下にある日本軍の支援を受け、朝鮮軍によって王宮を占拠し、王妃を暗殺して、国王を囚われの身と した。
しかし、閔妃を殺害したのは、日本人か朝鮮人であることは確実だが、それが誰かは分かっていない。
それと、乙未事変は日本政府の指示でおこなわれたものではない。
乙未事変の結果、高宗の父(大院君)への不信感はピークに達し、ロシアの支援を受けて自分で政治をおこなうようになる。
いっぽう、大院君は日本の支援を受けることができず、政治的な力を失った。
こうして、閔妃と大院君との「舅と嫁対決」は終わった。
結局は「共倒れ」になったと言っていいだろう。

「閔妃」とかつては言われていたが、実はこの写真の人物は閔妃ではなかった。しかし、「雰囲気」は伝わる。
歴史の「もしも」:なぜ強敵が「とも」になれなかったのか?
歴史の「タラレバ定食」はおかわり自由なので、ここからは好き勝手に想像して書かせてもらう。
違いは「国を守る危機意識」の欠如
当時の日本と韓国には欧米列強が近づいていて、国際環境としては同じ危機的状況にあった。
しかし、朝鮮には「朝鮮がヨーロッパに征服されて植民地にされるかもしれないという、この時代の共通した危機意識」があったようには見えない。
閔妃と大院君は「どっちが支配者になるか?」をめぐり、「暗殺合戦」をするほど争っていて、外国を巻き込んで国内を混乱させた。
もし、この2人が手を組んでいたら?
リーダーシップのある大院君と開国を主張し、時代の流れを正しく読んでいた閔妃が手を組み、今とまったく別の歴史があったはずだ。
薩摩と長州のように憎しみを乗り越えて、「国の存亡」のために同盟関係になり、協力して国内改革をおこなっていたら、1910年に国を失う悲劇は避けられていたかもしれない。
しかし、閔妃と大院君にはそれができず、強敵が「とも」になることはなかった。
天皇の存在とトップの権威が分けた、日本と韓国の運命
2人とも支配欲が強く、高宗は坂本龍馬のような仲介者になることはできなかった。
それに日本では、全国の藩や幕府の上に天皇がいて、すべての大名や将軍が尊重し、したがっていたから一致団結することが可能だった。
19世紀後半の朝鮮には、高宗の権威は形だけで、閔妃と大院君を上回る存在はなかった。そのため、長年にわたって「頂上対決」を続け、国内は混乱・疲弊し、清や日本、ロシアの介入を招いて、最後は日本に併合された。
実際のところ、韓国ほど「ライバルが手を結ぶ日」が必要な国はない。

コメント