1842年のきょう8月29日、アヘン戦争でイギリスにボッコボコにされた中国(清)がイギリスと南京条約を締結した。
古代から交流のあった日本は中国をよく知っていて、アジアの大国と考えていたから、まさかの惨敗を知ってすさまじい衝撃を受ける。
それで“鎖国”をしていた江戸幕府は、異国船(西洋船)が近づいたら砲撃して追っ払え!という「異国船打払令」を同じ年(1842年)に廃止して、異国船には燃料や食料、水を与える「薪水給与令」を制定した。
朝鮮はその真逆。
中国で何が起きたことや国際情勢を正しく理解し、それに合わせて国を変えることができず、近代化に遅れてしまった。
オランダと付き合いのあった日本とは違って、西洋とは一切関の係を持たなかった朝鮮は日本以上に厳しい鎖国政策をとっていた。
日本がアヘン戦争を正確に把握できたのは、オランダからヨーロッパの情報を入手できたことが大きい。
中国からの情報しかなかった朝鮮は、事実を客観的に見ることができなかった。
日本は鎖国をやめて開国に踏み切り、欧米に学んだから近代化に成功し、開国すべきをタイミングを逃して鎖国を続け、欧米を拒否した朝鮮はそれに失敗した。
アヘン戦争の後、朝鮮にはその機会があったのに、結局それ気づくこともできなかった。
一方、日本は現実をそのまま受け入れて、正しい判断をすることができた。
これが近代化における日朝の決定的な差となる。
幕府が「異国船打払令」から「薪水給与令」に対応を変えた約20年後、1863年に下関海峡でアメリカ、フランス、オランダの船に長州藩が砲撃して死傷者を出す。(下関事件)
この攻撃を予想していなかった西洋船が急いで逃げ出し、「あれを見ろ!オレたちは強い!」と長州藩は大いに盛り上がった。
でも、それはもちろんファンタジー。
長州藩はすぐに現実を思い知らされる。
翌月、アメリカとフランスの軍艦が報復でやってくると、長州海軍は簡単に蹴散らされて陸上にあった砲台も破壊されてしまう。(下関事件)
この痛みによって、長州藩はようやく外国の軍事力の強大さに触れることができた。
が、目を覚ますまでには至らず。
アメリカ・フランス軍にフルボッコにされても、まだ長州藩には「異国船打払令」の感覚が残っていて、西洋船が下関海峡を通ることを認めない。
それが原因となって翌1864年、今度はイギリス・フランス、オランダ、アメリカの4カ国が攻めてくる。
長州藩がこの4か国と戦ったらどうなるのか?
それはイギリスに留学していて、彼我の差をよく理解していた長州藩士の伊藤俊輔と井上聞多がよく知っていた。
イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れた事を現地で知った二人は戦争をしても絶対に勝てないことを実感していた。
結果はもちろん、前回を上回るフルボッコの巻。
この下関戦争の敗戦から、長州藩はやっと現実を受け入れてイギリスと仲良くなり、軍備増強を図って幕府を倒す方向へ進んでいく。
1863年には薩英戦争があって、イギリスの実力を知った薩摩藩も考え方を改めてイギリスに接近し、友好関係を深めていった。
話はさかのぼって、1808年にフェートン号事件で屈辱を味わった鍋島藩もこれをきっかけに近代化に努力して、明治維新の時には大きな力を持つようになった。
連合国が占拠した長州藩の砲台
「あんなヤツ、大したことはない」とバカにしていたけど、実際に戦ってみて初めて相手の力が分かり、その後は心を開いて仲良くなる。
幕末の日本にあった、そんな少年ジャンプ的な展開が朝鮮にはなかった。
日本で下関戦争や薩英戦争があったころ、1866年に朝鮮半島では、フランス人宣教師の処刑が原因となってフランス軍と朝鮮軍との戦いぼっ発。
この時は急な決定でフランス軍が準備不足だったこともあり、装備では大きく劣っていた朝鮮軍が兵力にモノを言わせてフランスに勝ってしまう。(丙寅洋擾)
この後、1871年にはアメリカとの武力衝突が発生する。
時代遅れの武器で武装した朝鮮軍は戦死者比でいうと、「240:3」という圧倒的な差でアメリカ軍に敗北。
でも、朝鮮政府には現実がまるで見えてなかった。
おそらく正確な情報が届かなかったのだろうが、最高実力者だった大院君は、
「西洋の人の船が噴き出す砲煙が天下を覆っても、東方の太陽と月は永遠に輝く」
と、まるで朝鮮が勝利したかのような歌を詠む。
丙寅洋擾でフランスに、辛未洋擾ではアメリカを相手に連続で勝ってしまった!
ということは、オレたちは強い!
と思い込んでしまった朝鮮政府(大院君政権)は、斥和碑(せきわひ)を全土に立てるよう指示を出す。
この碑にはこんな文が刻まれていた。
「洋夷侵犯 非戦則和 主和売国」
(洋夷侵犯するに戦いを非とするは則ち和なり。和を主するは売国なり)
西洋の国がやってきたら戦って追い返せ、和親を主張する者は売国奴だ、といった意味。
この石碑を全土に立てることによって、朝鮮政府は鎖国体制を強固する雰囲気を全国にみなぎらせていく。
なかには朴珪寿(パク・キュス)のように国際情勢や朝鮮の国力を正しく把握し、欧米から学んで孤立を避けるべきだと主張する人物もいたけど、そういう開明的な人間は相手にされなかった。
日本と朝鮮の近代化を比較した場合、1871年はとても象徴的な年だ。
朝鮮が斥和碑をいくつも立て、鎖国体制を強固にしたこの年、日本では岩倉具視を全権とする「岩倉使節団」が横浜港を出発した。
これによって伊藤博文、大久保利通、木戸孝允など100名のメンバーが欧米各国の”リアル”に触れて、先進的な国家制度、産業、技術などを学んで、彼らが近代国家としての日本を築いていく。
たとえば国の発展には鉄道が不可欠だと気づき、帰国後すぐに日本鉄道会社を設立した。
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通
政府から断髪令が出ても、「髷(まげ)は日本人の魂だ」と考えていた岩倉は拒否して、上のように1人け和服にちょんまげ姿をしていた。
でもアメリカに行って衝撃を受けて、シカゴで断髪している。
岩倉使節団のメンバーだった5人の女子(日本初の女子留学生)
右から2番目の少女が津田梅子
アメリカに残った津田梅子はさまざまなことを学んで、帰国後に学校(いまの津田塾大学)を開設し日本の近代化を教育面で支えた。
斥和碑(せきわひ)
西洋の国は追い返せ!
和親を主張するヤツは売国奴だ!
1942年にアヘン戦争で中国が負けても何も変わらず、71年にはこう強調して鎖国体制をより一層強めていく。
この時点で決定的な差が生まれてしまった朝鮮は、後に日本に近代化を学んだけれど、結局成功することはなかった。
きょうは1910年に日韓併合条約が発効し、日本の朝鮮統治が始まった日だ。
朝鮮がもっと早く開国&近代化していれば、これとは違う歴史があったはず。
新幹線の始まり「あじあ号」、明治(満州鉄道)から平成(JR)へ
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