きょう11月14日は、1874(明治7)年に「明六雑誌」が創刊された日。なので今回は、19世紀後半に日本と韓国(朝鮮)の間で、決定的な差が生まれた原因について考えていこう。
国を失うという危機感
19世紀中ごろ、西洋列強がアフリカやインド、東南アジアを植民地にしながら日本へ近づいてきた。そのころ、福沢諭吉は日本の未来についてこんな心配をしていた。
「自分は何とかして禍いを避けるとしても、行く末の永い子供は可愛そうだ、一命に掛けても外国人の奴隷にはしたくない」
日本が外国に支配されないためには、日本を近代国家に生まれ変わらせるしかない。そのため、政府は明治維新と呼ばれる国内改革をおこない、それに成功して、日本を欧米列強と並ぶ強国にすることができた。いっぽう、朝鮮はそれができずに国力を失い、1910年に地上から消滅した。
韓国人から見た明治維新
先日、韓国メディアの朝鮮日報がこんな記事を掲載した。(2025/11/02)
明治維新は人を変える改革だった
ここでは、韓国の歴史学者・孫承喆(ソン・スンチョル)氏が書いた『明治維新を歩く』を紹介している。ソン氏によると、明治維新はただの制度改革ではなく、日本社会を根本的に変えることを目指した「人づくりの道」だったという。
当時、日本が西洋列強の植民地にされないためには、制度や技術の導入だけでなく、国民一人一人の考え方や価値観、行動様式を変える必要があった。近代国家になるためには、「近代的国民」が必要だったのだ。
ソン氏は日本の精神的指導者として吉田松陰に注目し、松陰が唱えた「立志」「至誠」「飛耳長目」「死而後已」をリーダーに求められる四つの精神とした。それによって、明治維新を支える基盤ができたという。
吉田松陰は伊藤博文や木戸孝允、高杉晋作といった幕末・明治の英雄を育てたから、彼を精神的指導者と呼ぶのは納得できるとしても、明治時代を迎える前に亡くなった松陰が「近代的国民」の育成に直接関わったとは言えない。
その役割を果たしたのが「明六雑誌」だ。
「明六雑誌」
江戸時代を終わらせて明治時代になると、明治政府は日本を欧米と同等の文明国にするため、経済力と軍事力を高める「富国強兵」政策を積極的に推し進めた。それと同時に、民間では憲法と議会を整備する政治改革運動がおこなわれていた(自由民権運動)。
そのころ、福沢諭吉をはじめとする明治初期の知識人たちは、日本を文明国にするためには、一般人がそれにふさわしい知識や見識を持った「国民」へと生まれ変わる必要があると考えた。
そこで、彼らは民衆に西洋の先進的な知識や考え方を伝えるため、1874(明治7)年に「明六雑誌」を創刊。
これは学術総合雑誌で、福沢らはこれを通して、文明国(欧米)の制度や思想を一般人に紹介し、江戸時代の古い認識を変え、新しい時代にふさわしい価値観を身につけることをねらった。
たとえば、容疑者の取り調べで拷問を使うことは文明国では認められていないから、それを廃止するように訴えた。
そして、お上の言うことに忠実にしたがう江戸時代のメンタリティを批判し、新しい時代の日本人は、欧米で重要視されている「individual(またはindividuality)」という概念を取り入れる必要があると強調した。
現代の日本では、「individual」は「個人」と訳されている。これはすべての人間が自由や権利を持っていて、主体的に考えて行動するというもので、江戸時代までにはなかった考え方だ。
福沢諭吉たちは『明六雑誌』という雑誌を発行したり、各地で演説をしたりして、民衆一人一人を独立した個人にさせ、「国民」に変えようとした。
明治日本はこうした国民の意識改革に成功し、日本をアジア初の近代国家にすることができた。そして、日清・日露戦争の勝利を経て、欧米列強に認められる国となった。
朝鮮の失敗
朝鮮では1894年に日本が指導し、中国(清)からの独立と近代化を目指す「開化派」を中心に国内改革をおこなった。その具体的な内容には、通貨改革や身分差別の撤廃、拷問の廃止などがある(甲午改革)。
しかし、王妃の閔妃を中心とする勢力によって、この改革運動はつぶされ、朝鮮の近代化は実現しなかった。国の未来を真剣に思って行動した人もいたが、政治家たちは同じ朝鮮人の政敵を倒すことに夢中になっていたのだ。
そして、1910年の日韓併合によって、独立を失うという悲劇的な結果を迎えた。
日本と朝鮮の「差」
明治維新の原動力となったのは、日本を外国に支配されたくないという強い危機感だった。朝鮮政府が国内改革に失敗したのは、その危機感が欠けていたからだろう。19世後半、日本と朝鮮の間で残酷な違いが生まれた原因にはこの意識の有無がある。
江戸時代の日本と朝鮮には、情報環境において大きな違いがあった。朝鮮は中国の冊封体制下にいて、国際情勢に関する情報は中国から一方的に伝わるのみだった。アヘン戦争(1840〜42年)については、清から与えられた情報しか知らなかったため、清がイギリスに敗北したことに気づいていなかっただろう。
日本はオランダから正しい情報を得ていたから、清の敗北に大きな衝撃を受け、西洋諸国に脅威を感じ、それまでの強硬な政策を変更した。
朝鮮政府は西洋列強の強さや恐ろしさを知らず、安全保障を中国に依存し、「明日は我が身」という強い危機感を持っていなかった。冊封体制下にいれば、当然、そんな発想になる。
そんな朝鮮の政治家や役人に「自分の命をかけても、子供たちを外国人の奴隷にしたくない」という決意があったとは思えない。
朝鮮の知識人が国を近代化するため、民衆を自立した「国民」へ生まれ変わらせる努力をしたという話は聞かない。朝鮮では「人づくりの道」という運動はなかっただろう。
日本に比べて、朝鮮は全体的に危機意識が薄かった。その差が近代国家になれるかどうかの違いにつながった。

コメント
コメント一覧 (3件)
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日本は自国を保護しなければならない、または自国を富国強兵に発展させなければならないという自主的な独立精神があったが、朝鮮はそのような考えが全くありませんでした。
朝鮮には”自国”という概念がありませんでした。「朝鮮」という国は性理学的思想によって「王の家」という概念だけでした。そして、それは中国という皇帝が治める宗主国に属する一つの諸侯国に過ぎませんでした。実際、明が清に滅亡した後、朝鮮の一部の地方政治家が滅びた明の死んだ皇帝のために碑石を建て、定期的に祭祀を行いました。自分たちの王が堂々と生きているのに、他国の皇帝のために祭祀を行うということは王朝国家ではありえないことですが、朝鮮では堂々と発生しました。その地方の政治家たちは自分たちが朝鮮の王の臣下以前に中国皇帝の臣下だということをより重要視していたのです。
そんな朝鮮だからこそ、国民は自分たちの国を考えていませんでした。
壬辰倭亂(文禄·慶長の役)の際にも、日本軍に同調した朝鮮の民が多く、ソウルの民は宮殿を焼き払い、奴婢文書を焼却し、朝鮮王朝に対する不満を爆発させました。
>朝鮮には”自国”という概念がありませんでした。「朝鮮」という国は性理学的思想によって「王の家」という概念だけでした。
19世紀の後半の朝鮮政治を見ていると、「国家は天下のもの、国民のもの」という考え方が無かったと思います。政治家は国を私物化し、自分が権力や利益を握るために活動していました。それで主権を失ったためか、逆の今の韓国人は日本人より、国に対する思いは強いと思います。
>今の韓国人は日本人より、国に対する思いは強いと思います。
そう見えるでしょうが、実際には「選択的」愛国心です。
相手が日本の場合、あるいは中国が韓国を卑下する時だけ作動する感情です。