【タイの外交上手】なぜ植民地にならず、大戦後に戦勝国になれたのか

タイは「強い国」ではなかったが、「うまい国」だった。
「ほほ笑みの国」と呼ばれるタイには、その笑顔の下にしたたかな計算があったから、大国に囲まれながらも、独立を守ることができた。
この国の「生き残るための外交戦略」には学ぶことがある。

目次

1. 帝国主義の嵐と「二つの独立国」

弱い国は強国の「養分」になる。
欧米列強がそんな弱肉強食の帝国主義のルールをつくり、アフリカや中東、インドを植民地にして、アジアへ迫ってきた。

19世紀後半から20世紀はじめにかけて、東と東南アジアで独立を維持した国は日本とタイしかなかった。

そして、第二次世界大戦が終わったとき、日本は敗戦国となったが、タイは戦勝国となった。
日本は富国強兵の近代化に成功し、中国(清)とロシアを打ち破り、国際社会での地位を確立した。
第一次世界大戦後、世界五大国のメンバーとなった日本は、まず間違いなくタイより軍事力があり、強い国だった。

それに対し、タイは「うまい国」だった。
19世紀末期、イギリスとフランスに囲まれても独立を守りきり、大戦中は日本と同盟を組みながらも、戦後は「敗戦国」になることを回避し、実質的な「勝利」をもぎ取った。

「運が良かった」で済ませるには、あまりに鮮やかすぎるし、何よりタイに対して失礼だ。
これから、大国の間で生き残るため、タイが見せた合理的でズル賢い戦略外交を学んでいこう。

2. 「緩衝地帯」という地政学的なラッキー

19世紀後半、タイはいわば「巨大なプレス機」に挟まれていた。
西からはインドとビルマ(ミャンマー)を飲み込んだイギリスが、東からはベトナムやカンボジアを手中に収めたフランスが、どんどん領土を広げていた。

タイにとってビルマは、1767年にアユタヤ王朝を滅ぼされた宿命のライバル国だ。
そのビルマがイギリスに敗北したのを目の当たりにして、タイはイギリスとの戦いを避けることを外交方針にしたはずだ。

しかし、英仏に挟まれたタイは「ラッキー」だった。
というのは、英仏は1898年にアフリカでファショダ事件を経験し、互いに衝突しないように取り決めをしていたからだ。

当時、イギリスはカイロとケープタウンを結ぶ縦断政策をとっていて、フランスはダカールとジブチを結ぶ横断政策をとっていた。
となると、両者がアフリカのどこかでぶつかるのは必然。

英仏はスーダンのファショダのあたりで交差し、軍事衝突の危機をむかえる。しかし、この2国が争えば、第三国、特にドイツを喜ばせるだけだ。
そこで英仏はファショダで対立の頂点に達したが、話し合いをした結果、フランスがファショダから撤退し、関係は逆に良くなった。

イギリスとフランスはこの出来事から、東南アジアでも国境を接しないで、『クッション(緩衝地帯)』を作ったほうがいいと判断した。
どちらも攻め込まず、タイを独立状態にさせておけば、英仏は直接戦争にならなくて済む。タイにとっては、この大国同士の思惑はとっても都合が良かった。

 

それと同時に、タイも英仏と全面対決にならないように外交的な努力をしていた。
タイは「領土の完全防衛」をあきらめ、東北部の広大な地域をフランスに、南部の一部をイギリスに割譲している。

手足(地方)を切り捨ててでも、心臓(主権)だけは死守した。
タイとしては屈辱的だったが、合理的な「損切り」を決断したことが、植民地化を回避した大きな要因となった。

3. 「一番強い側につく」という生存本能

あるタイ人の留学生が自国についてこう表現した。

「タイは弱くはないですけど、強国と呼ぶには力が足りません。だから、そのとき一番強い側について、自分を守ってきました。外交センスのある国なんですよ。」

この言葉から考えると、日本は「大国」と思い込んでアメリカに勝負を挑み、2発の原子爆弾を落とされて敗北したと言える。

歴史を見ると、この留学生の指摘は正しい。
国際政治において、タイほど柔軟性と先見性があり、みごとに生き残った国も珍しい。
タイはみずからを「大国」だと錯覚しなかったことが、その要因だろう。

 

タイは、ただ周囲の国際環境を観察していただけではない。
国王ラーマ5世が主導し、日本の明治維新を参考に「チャクリー改革」と呼ばれる近代化を断行し、それに成功した。

日本の協力を得て近代化し、西洋列強から独立を守ったタイ

中国や朝鮮は近代化改革に失敗し、主権を失った。これは簡単にできることではない。

タイは「文明国」としての体裁を整えることで、欧米列強に「保護(支配)する正当な口実」を与えなかった。
近代化をおこなって自身を強くすることで、タイは「盾」を得たことになる。

4. 第二次世界大戦:日本と同盟、しかし「逃げ道」は忘れない

1941年、日本軍が東南アジアへ進出すると、タイは「究極」と言っていいほど困難な選択を迫られた。
英仏米などの連合国と手を結ぶか、それとも日本とタッグを組むか。このとき、タイには「中立」という都合のいい選択肢はなかった。

結局、タイは1941年に同じアジア人の日本と同盟関係を結ぶことを決めた(日泰攻守同盟条約)。
当時の日本軍の勢いからしたら、正面衝突をしたら国家は消滅していただろう。

しかし、タイは外交上手だ。
日本を全面的に信用することはなく、タイ政府は同時に「保険」をかけた。
日本がタイへ侵攻したことを想定し、イギリスとアメリカに実効的な支援の保証を求めた。

His government also asked both the British and Americans for guarantees of effective support if Thailand were invaded by Japan.

Japan–Thailand relations

タイは日本の戦争に協力したが、決して「心中」するつもりはなかった。
日本軍のタイ進駐に反対したタイ人が「自由タイ運動」を組織し、連合国側に重要な軍事情報を提供した。
つまり表と裏で、日本と連合国の両方を支援していたことになる。
このしたたかさが、まさにタイ。

その後、アメリカがバンコクを爆撃して数千人の犠牲者が出たり、日本が劣勢になったりしたことから、日本から離れて連合国に近づいていく。

5.敗戦国を回避したタイの最終局面

1945年8月15日、日本が降伏を受け入れると発表すると、タイでは別の戦いが始まった。
何としても、「敗戦国」になることだけは避けないといけない。

指導者が交代し、タイの新政府は攻守同盟条約を「日本が軍事力を背景に無理やり調印させたもので、本意ではなかった」と主張し、その違法性を連合国に訴えた。
こうして被害者をアピールしたり、「自由タイ運動」が連合国を支援していたことを強調することで、連合国の理解を得ることに成功した。

タイは敗戦国として連合国に占領されることなく、逆に戦勝国となった。
さらに、国際連合への加盟もいち早く認められた。

6. 結論:「竹の外交」と呼ばれるタイ外交のうまさ

タイの外交には先見性があり、どう転んでも自分は助かるような布石を打っていた。
敵を固定せず、常に別の選択肢を確保した。
どこにも完全な忠誠をしないし、完全な敵対もしない。
プライドよりもサバイバルを優先し、勝者を説得し、その仲間になった。

これは、巨大な大国に挟まれた国が生き残るための「知恵の結晶」だ。

タイは柔軟性と実用主義をもって、大国と交渉にあたってきた。
領土を失っても主権は守り抜いた。強い風に吹かれて曲がることはあっても、折れることのない竹の特性に例え、タイの外交政策は「竹の外交(Bamboo diplomacy)」と呼ばれた。

留学生の言うとおり、タイはその時々の強い国の側に立ち、どう状況が変わっても自国の主権を維持していた。
この事実ほど、タイの外交上手を明らかにするものはない。
日本にはできなかったことだ。

「どうすれば生き残れるか」という方法論について、日本がタイの歴史から学んだほうがいい。

 

 

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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