知り合いのドイツ人は、自分の命よりも名誉を尊重する武士の生き方に敬意をはらっていた。
しかし、全国の武士のトップだった徳川慶喜はその価値観に反し、戦いの途中で逃げ出してしまった。
今でも各国の軍隊で「敵前逃亡」は重罪で死刑を宣言されることもある。
とはいえ、もし彼が徹底抗戦を選んでいたら、100万人都市だった江戸は戦場となり、日本の歴史は今と違うものになっていた。日本にとって不幸な方向へ進んでいたはずだ。
新政府軍との全面衝突を避け、江戸無血開城への道を開いた徳川慶喜は、「卑怯でおく病な将軍」に見えるが、「戦いを終わらせた将軍」という評価をすることもできる。
彼にとって「朝敵」とされることは、「逃亡」の屈辱よりも耐えがたいものだったのだ。
苦悩の末、日本史に残る決断をした慶喜のリアルな心情に迫っていこう。
逃げ出した将軍
グーグルに「徳川慶喜 逃げ」と入力すると、こんな関連ワードが出てくる。
「逃げた 逃げなかったら 逃げる 逃げた理由 逃げた場所」
幕末、日本を二分する戦いの最中で、彼は大坂城を抜け出し、江戸へ戻ってしまったため、今では「逃げた将軍」と言われている。
しかし、「逃げるは恥だが役に立つ」とも言う。
ちなみに、このフレーズをドラマで知った人は多いと思うが、元ネタは次のハンガリーのことわざだ。
「Szégyen a futás, de hasznos」
(恥ずかしい逃げ方だったとしても、生き抜くことが大切だ)
慶喜がしたことは「逃げ恥」だったかもしれない。しかし、その決断によって「日本は救われた」とも考えられる。
「朝敵」になりながらも、彼のくだした決断が江戸城の無血開城へとつながったのだから。
そして、彼自身も生き延びることができた。
世界の歴史なら、処刑されてもおかしくなかったのに、明治時代、彼は銀座でショッピングを楽しんでいた。

錦の御旗(みはた)
鳥羽・伏見の戦いと「錦の御旗」の衝撃
幕末の日本では、新しい政府をつくろうとする薩摩・長州藩を中心とする勢力と、旧幕府軍が対立し、1868年に京都の近くで「鳥羽・伏見の戦い」がぼっ発した。
これが、いわゆる戊辰戦争の始まりだ。
この戦い、戦力だけを見れば幕府軍のほうが有利だった。新政府軍 5000に対し、幕府軍は 15000と3倍の兵力差があったという見方もある(鳥羽・伏見の戦い)
しかし、この戦いの途中で、「錦の御旗」が登場したことで状況が大きく変わる。
旧幕府軍、「朝敵」となる
新政府軍がこの旗を掲げたことで、彼らが「天皇(朝廷)の軍」であることを表し、旧幕府軍は天皇に逆らう軍、つまり「朝敵」になったことを意味した。
この旗が旧幕府軍の兵に与えた心理的影響は大きく、彼らは混乱し動揺した。
当時の武士たちは、「朝敵」になることを心の底から恐れていたため、前線にいたある土佐藩士は、旧幕府軍の兵が戦わずに撤退するのを目撃した。
「錦の御旗」に刀を向けることは、天皇に逆らう「逆賊」になることを意味する。
これに、おそらく誰よりも衝撃を受けたのは、大坂城にいた徳川慶喜だった。
敵軍に「錦旗」が掲げられたのを知り、彼は驚がくし、その時の気持ちを次のように書いている。
「あわれ、自分は朝廷に対し歯向かう意思などつゆばかりも持っていないのに、賊名を負うにいたったのは悲しい事だ」
大阪城にいた上層部は大混乱におちいり、態勢を立て直すため、急いで江戸へ戻ることになった。
戦いの最中で多くの兵を残し、自分たちだけで“こっそり”戻ってしまったから、21世紀の日本人に「徳川慶喜 逃げた」と検索されるようになる。
慶喜「薩摩の芋侍どもには負けぬ」
大坂城から外国船で逃げ帰ってきた慶喜は、錦の御旗を掲げ、「官軍(天皇軍)」を名のる新政府軍と戦うか、それとも和平を結ぶかを決めるため、幕臣を集め話し合いをおこなった。
その席で、主戦派の中心人物だった小栗忠順(ただまさ)は徹底抗戦を主張し、「日本の歴史を振り返りなされよ」と慶喜にこう訴えた。
「帝をめぐる戦いで勝った方が官軍。負けた方が賊軍にされまする。」
その例として、小栗は長州藩をあげる。
長州は禁門(皇居の門)に矢を放ち、朝敵となったにもかかわらず、見事に復帰し、今は官軍となっている。
小栗はそう話すと、「朝敵にされるのは一時でござる」と強調した。
これと同じように、旧幕府は今は朝敵でも、戦いに勝てば立場は変わるかもしれない。
これに対して、慶喜は内心で「小栗のやつめ、この俺に説教する気か。日本史は父の徳川斉昭から、皇国史観をいやというほど叩き込まれておるわ」と怒りつつ、こう言い返した。
「小栗、我が徳川が薩摩の芋侍どもに負けるとは余も思わぬ。じゃが、錦の御旗に弓引くことはできぬ」
この言葉を残し、慶喜は席を立った。
父の徳川斉昭から、天皇を何よりも尊重する「皇国史観」をいやというほど叩き込まれていたため、彼には「お前(小栗)の何十倍も日本史は学んでおる」という自負があった。
彼が天皇の旗の前に武器を置き、「逆賊」になることを避ける道を選んだのは当然だった。
逃亡将軍が「江戸無血開城」の道を開き、日本を救った
当時の江戸は世界でも有数の大都市で、100万人以上が住んでいたと言われている。
もし幕府が徹底抗戦を決意していたら、大砲や火災によって江戸の町は燃え、多くの民衆が巻き込まれ、とんでもない被害が出ることは確実。
慶喜はその悲劇を避けるため、戦わずに江戸城を新政府軍へ明け渡すことを決めた。
幕府側の代表・勝海舟と西郷隆盛が会談をおこない、「江戸無血開城」が実現した。
こうして江戸とそこに住む多くの人たちが救われた。
そして、慶喜は1868年3月5日、天皇への恭順の意志を示すため江戸城を出て、上野の寛永寺に入り、謹慎した。
もし、慶喜が抵抗を続けていたら、それだけ戊辰戦争は長引き、新政府軍が勝ったとしても大きなダメージを受け、その後の日本の政治は大きく混乱したはずだ。
そうなっていたら、明治政府がおこなった近代化が成功したかどうかは分からない。失敗したら、日本全体ではなく、北海道など一部が欧米の植民地にされていた可能性は十分ある。
結果的に、「錦の御旗」が上がったことを知って、慶喜が逆賊の汚名を避けるために、いさぎよく朝廷に降伏したことが日本のためになったのだ。
慶喜が戦場から退いたことで、明治政府が早期に成立し、日本を近代国家へと変えていくことにつながった。
徳川慶喜は「逃げた将軍」となったが、見方を変えれば「戦争を終わらせ、日本国を救った将軍」にもなる。
※慶喜は1867年大政奉還で将軍の辞任を申し出て、天皇にそれが認められたから、江戸に戻った時はもはや将軍ではなかった。
しかし、細かい表現はスルーしてほしい。
参照:『近代日本の黎明 幕末・明治の外交交渉と外国人 (ディスカヴァーebook選書) 更級悠哉 』

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