【日本の遺恨】長州に対する現代会津人の思い・当事者の気持ち

 

京都人の言う「この前の戦争」とはアメリカとの太平洋戦争ではなく、応仁の乱のことを指す。
そして会津人の言う「この前の戦争」とは戊辰戦争(会津戦争)を意味する。

京都に4年ほど住んでいた経験からすると、上の話はネタや都市伝説のようなモノだけど、福島県出身の人から聞いた下の話については分からない。
幕末に薩摩・長州を中心とする明治新政府軍と幕府軍が激突する戊辰戦争がぼっ発し、関西での戦いに勝利した明治新政府軍は江戸城をも手に入れて、さらに北上し会津藩とぶつかった。
このとき会津人は一致団結して必死で応戦するも、少年兵が集団自決する「白虎隊の悲劇」が起こるなど、最後は「刀折れ矢尽きる」という状態になって降伏し、1868年のきのう11月6日、会津戦争は終わった。

 

攻撃を受け破壊された会津若松城

 

この会津戦争で新政府軍の主力は薩摩や土佐藩だったのに、会津人の敵意や怒りはなぜか長州へ向けられた。
それはもう「長州犯」というレベル。
長州にとっては事故に巻き込まれたような気もするが、いまでも会津の人は山口に対して特別な感情を抱いているようで、福島県出身の知人はこんなことを言う。

「ボクは郡山市出身だから特になんとも思っていません。でも会津には、山口を嫌ってる人は今でもたくさんいるんじゃないか?」

 

以下、無責任なネットの書き込みということを前提に、「会津人にとっての戊辰戦争」を感じ取ってほしい。(禁句/福島

・山口県出身者との結婚は絶対に認めない。
・相手が山口県出身者だと、それだけで商談が破談する。
・萩市が友好都市になることを申し出てもになることを申し出ても、断固として断り続けている。 毎年山口県の青年会議所かなんかと交流会が開かれているが、夜の飲み会になると決まって喧嘩が始まり、両者の溝は埋まりそうにない。
夕方の地方ニュース番組で、れっきとしたニュースとして扱われることがある。決まって最後は「両者の溝は深そうでした。」
・会津若松の小学校では戊辰戦争での藩士が命をつないだ籠城食を給食に出して平和を考えさせた。
・市議選で圧倒的優位といわれてた候補者が「萩と会津の和解を実現させたい」と言ったとたん、支持率が急降下。得票数最下位で落選した。

落選の話の真偽は知らんけど、1986年に萩市が会津若松市に「もう120年も経ったから」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、「まだ120年しか経っていない」と会津若松市が拒絶した話がガチ。
というわけで、“盛ってる部分”があるとしても、やっぱり会津の人たちは山口(長州)に対して、複雑でネガティブなイメージを持っていることは間違いなさそう。
ではここで、当事者の意見に耳を傾けてみよう。

 

 

会津戦争が起きたのは上の「柴五郎」がまだ子どものころ。
この戦いで彼の祖母、母、姉妹は集団自殺してこの世を去った。
その後、新生日本のために軍人となって活躍し、引退して80歳を超えたころ、柴五郎はその時の心情をこう書く。

時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言なれど、ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり。

「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書 (中公新書) 石光真人 編者」

 

当時の薩摩や長州の人間は死んでしまったのだから、もう彼らを恨んでも仕方ない。
ただ、いまも言葉にできない悔しさがあって、悟道(こどう:仏教で悟りを開くこと。真理を得ること)はできないでいる。
会津の人間が戊辰戦争の歴史や、こういう会津人の気持ちを忘れてはいけないのだろう。
静岡人のボクとしては「いい加減さあ…」という気持ちがあるのだけど、会津人にとって戊辰戦争は、京都人にとっての応仁の乱のような“ネタ”とは違うから、「萩と会津の歴史的和解」は21世紀中は無理な予感。

 

 

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2 件のコメント

  • 一応、会津の人間ではありますが。
    「長州人」への恨み云々はややネタかなとは思いますけど、そこに至る住民達の感情というのは今もまだわだかまりが残っているのかな、と。

    元々現在の会津若松市は会津藩の城下町ではありますが、会津全土の他の街から見ると「武士達の街」であり、幕末期には度々の御役目のための増税で反発も強く、会津戦争時ですら近隣から「弁当を持って観戦に行った」との話も残ってる位、「他人事」と捉えていた人々も少なく無かった様で。
    むしろ、維新後の「仕置き」の故で当時の「福島県」地域では断トツに栄えていた筈の会津が低い扱いを受け、県庁も持っていかれ開発も遅れ、現代に至って「高速道路も新幹線も来やしねぇ」事への悔しさみたいな感情は根強いような気がします。
    会津人の怨嗟の対象が会津戦争で実際に攻めて来た薩摩や土佐に対してより、寧ろ長州に向かってしまうのは、戦争での恨みではなく、その後の長州閥の県令や役人に対しての感情が元になってるからなのではないかなー、と個人的には思ってます。

  • なるほど。
    「戦後」の会津についてはあまり知りませんでした。
    ”懲罰”のように開発を遅らされたら、まあ不満はたまるでしょうね。

    たしか司馬遼太郎の小説と思いましたが、会津戦争の時、会津の農民は普段通りに農作業をしていて、新政府軍の人間が驚いたという話があります。
    戦うのは武士の仕事で、自分たちには関係のないことだと。
    「会津人」とひとくくりにできないほど、当時はいろんな立場や考えの人がいたと思います。

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