「これに負ければ自分は死ぬ」というレベルの敵と戦って、何とか倒すことができたとする。
でもジャマな人間がいなくなると、慢心が生まれて好き勝手するようになって、そのために反感を買って別の人間の倒されてしまう。
成功体験が滅亡の原因につながったというパターンが歴史ではある。
鎌倉時代にあった「霜月騒動」→「平禅門の乱」というコンボで亡くなった平 頼綱(たいら の よりつな)もその一人。
彼は何をヤラカシタのか?
モンゴル軍による2度の襲撃(元寇)から日本を守った北条時宗が亡くなると、鎌倉幕府では有力者の安達泰盛(あだち やすもり)と、平頼綱(たいら の よりつな)の2つの勢力がバチバチ対立するようになる。
外敵やカリスマ的なボスがいなくなると、内部分裂が始まるのは現代の日本の会社でもあるダメパターンだ。
もう、両者が同時に存在することは不可能なほど険悪な仲になったころ、「泰盛(やすもり)は謀反を起こして、将軍になろうとしている!」と主張した頼綱(よりつな)が霜月(旧暦の11月)の17日に攻め込み、泰盛やその子供などを自害や討ち死に追い込む。
この霜月騒動で安達一族を滅亡させ、各地にいた泰盛の支持勢力も撃破したことで、平頼綱はもはや敵なしの無双状態となった。
そして彼は自分の意のままに、やりたい放題の政治をはじめるようになる。
頼綱の独裁政治についてある貴族がこう嘆く。
「安達泰盛が滅ぼされてからというもの、平頼綱がひたすら専制政治を行なって、誰もが恐れるしかありません」
(城入道(=泰盛)、誅せらるるの後、彼の仁(=頼綱)、一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なく候)
頼綱は当時の日本では絶大な権力者だったから、「それはいけません」と諌(いさ)めてくれる人はなく、つい一線を越えてしまったと思われる。
こんな恐怖政治をしていても、頼綱の立場はあくまで北条家の家臣でしかない。
支配者のように振る舞う頼綱を見て、条時宗の子で執権だった北条貞時(さだとき)はこのままでは鎌倉幕府があぶないと危機感をつのらせていく。
そんなタイミングで、1293年に鎌倉で大地震が発生する。
天「殺れ」
貞時「はい」
たぶんそんな感じに、地震で社会が混乱状態になったのを利用して、「トキはいま!」と貞時の軍が攻め込み、頼綱を自害に追い込んで彼の一族を滅亡させた。(平禅門の乱)
貞時が頼綱を滅ぼした理由は「頼綱が息子の資宗(すけむね)を将軍にしようとしている」というものだから、「将軍になろうとしている」という理由で安達泰盛(やすもり)を滅ぼした8年前の霜月騒動のブーメランだ。
このあと何だかんだであって泰盛と頼綱の血を引く者同士が結婚し、両家は婚姻関係を結ぶことになる。
泰盛と頼綱もあの世で和解したかどうかはナゾ。
そして平禅門の乱の140年後、1333年に後醍醐天皇側の武将・新田義貞の攻撃を受けて、北条・安達・平の一族は仲良くそろって滅び、鎌倉幕府は滅亡した。(東勝寺合戦)
後日談
室町時代にあるお坊さんが熱海の温泉に行った時、地元の僧からこんな話を聞いたという。
「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。ここには彼の邸があって、彼が殺されると建物は地中に沈んでいった。人はみな、生きながら地獄に落ちていったのだと語り合い、そのため今でも平左衛門地獄と呼んでいる」
死後80年以上経っても、頼綱の恐怖政治は伝説として語り継がれていた。
そんなことをしていたから、平禅門の乱でぶっ倒されることになる。
霜月騒動でライバルをこの世から消去することに成功した後、心の中に生まれたオゴリがこの運命を招く原因になったはずだ。
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