【李舜臣の最期】日本と韓国で違う歴史認識、露梁海戦のばあい

 

12月16日は1598年に「露梁海戦」のあった日か。ナルホドです。
露梁(ろりょう)海戦ってのは豊臣秀吉の命によって、日本軍が朝鮮へ攻め込んだ2度目の朝鮮出兵(慶長の役)で、実質的に最後の戦いとなったもの。
秀吉が亡くなったことで帰国を決めた日本軍は明軍と交渉し、無事に撤退することで双方の合意が成立。
でもその約束を破って明・朝鮮水軍が待ち伏せをして襲い掛かり、それに日本軍が応戦して露梁海戦が始まった。

おもしろいというか、よくワカランのがこの結果で、朝鮮側では日本軍に「大勝した」となっていて、日本側では「成功した」とされている。
現代の日韓の認識もこれと同様で、まったく同じ戦いであるもかかわらず、その認識はまるで逆。
朝鮮側の記録によると300隻の日本船のうち200隻が沈没、千人が死傷し、溺死した者は数えることができないとある(宣祖実録)。
だがしかし、日本では50人ほどが戦死したという記録があるから、“日本目線”からすると、朝鮮側の記録はマシマシを超えてもはや爆増だ。
もちろん今となっては、双方の正確な犠牲者数は歴史の闇にあるからダレにも分からない。
ただ、韓国の英雄・李舜臣将軍をはじめ、このとき明・朝鮮軍では多くの将官が亡くなった一方、日本軍での将官クラスの戦死者はゼロで、不利な状況で敵の攻撃をかわしつつ撤退することに成功したから、個人的には日本に有利な結果に終わったと思う。

でも、日本の「朝鮮出兵」が韓国では「朝鮮侵略」となるように、歴史についてはお互い、見方がひっくり返るパラレルワールドだから、これもそんな“日韓あるある”のひとつ。

 

韓国では最近、この戦いについての朝鮮人による記録が発見され、李舜臣の最期が改めて確認されたと話題になった。

朝鮮日報(2022/11/27)

「李舜臣、部下の引き留めを聞かず先鋒に」…露梁海戦の状況、柳成竜の親筆で初めて確認

李舜臣が「この海戦で大勝利」を収めたという歴史認識はさっき書いたととおり。
李舜臣将軍が直接、戦闘の指揮をしようとするのを、「大将が自らを軽く思ってはなりません」と副将が引き止めたが、李舜臣はそれを聞かずに陣頭指揮をとり、「やがて弾に当たって戦死した。ああ!」となった。
李舜臣が銃弾に倒れて亡くなったという記録は以前からあった。
でも、「嗚呼(ああ)」という嘆きの言葉があって、当時の部下の気持ちがリアルに伝わる記録はこれが初めてだろう。
韓国では国民的英雄とされている李舜臣について、日本サイドでは、約束を破って攻撃をしかけた“卑怯な将軍”との認識がある。
でもここまで具体的な記録になると、日本にも異論はない。

 

 

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景福宮(ソウル)の日本語ガイドさんの説明では、ここに注意して。

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。