見たい、食べたい、やりたいと、自然もグルメも山や海のアクティビティも、日本人の望む“たい”がそろってるのが「タイランド」。
このタイという国名は「自由」を意味する。(タイ王国)
自由をとても大切にしているタイの人たちは、外国勢力に自主・独立を奪われないよう上手に外交を行なってきた。
今回はその一端をお見せしよう。
1941年の12月21日は太平洋戦争中に、日本とタイの間で同盟関係(日泰攻守同盟条約)が成立した日。
もともと同じアジア人だし、西洋列強に囲まれた困難な状況でともに独立をキープしていたことから、タイは日本にわりと好意的だった。
1933年に国連総会で行われた、「日本軍は満州国から出て行くべき」という対日勧告案に対して、42カ国が賛成し日本だけが反対する。
絶対的孤立無援かと思われたが、タイ(当時はシャム)は棄権してくれた。
「世界中でタイだけは反対しなかった。ありがタイ!」ということで、日本でタイの人気が一気に高まる。
その8年後、日本がアメリカやイギリスを敵に回して戦争を始めると、タイは「いや、巻き込まないでほしい…」と中立を宣言する。
でもすぐに「日泰攻守同盟条約」を結び、日本とタッグを組むことを決めて積極的に協力するようになる。
そして翌42年、タイ政府はアメリカ・イギリスに対して宣戦布告を行なった。
日本が戦争に勝利してくれたら、タイとしては万々歳で言うことなし。
でも、だんだんと戦況は日本不利に傾いていき、カミカゼをもってしても状況は変わらず、二度の原爆投下を受けて日本は力尽きた。
日本が劣勢になっていくのを見て、これはマズいと思ったタイは日本とは距離を置いて、米英サイドに近づいていく。
そして日本の敗戦を想定してタイ政府は、日本軍に対抗するグループ「自由タイ運動」が国内で活動することを黙認する。
この自由タイ運動が連合国に味方になって、重要な軍事情報を提供した。
そんなことでタイは、どっちが勝っても対応できる準備を整えていたのだ。
そして戦後、タイ政府はあの同盟条約について、「日本が軍事力を背景に調印を強要してきた。あのとき自分たちは拒否できなかった!」とアピールし、さらにフランスへ領土を返還したことや自由タイ運動の良き活動もあって、タイは連合国から敗戦国とは認められず、裁きを受けることもなかった。
それにしても、なんという手の平返し…。
という見方もあると思うが、タイとしては自分たちの独立を守ることが第一。
日本と心中して国民を苦しめるわけにはいかないから、政府としてはこの「損切り」は当然の選択だ。
戦争中は上昇気流にあった日本と組むも、徐々に離れていって戦後は連合軍側に回り、どんな状況になっても自分たちの“自由”を守り通すことができた。
これもタイのすぐれた外交能力を示している。
正面からぶつかって玉砕した日本は、こういう狡猾さに欠けていたかも。
タイ人の心をつかむトヨタの日本流サービス。原点は三井高利だっ
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