「強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ。」
西ドイツの伝説的なサッカー選手ベッケン・バウアーがそう言えば、2000年前の中国の皇帝・光武帝は「柔よく剛を制す」と言った。
しなやかさのある者が屈強な者の勢いをうまく利用して、最後には勝つるーー。
日本で「柔よく剛を制す」は、柔道の大切な精神を表すとして言葉としてよく使われる。
この場合の「剛」とは、いまでいうなら脳筋(脳みそまで筋肉)のことだろう。
「柔よく剛を制す」はもとは「三略」という古典にある言葉で、名君とほまれ高い光武帝が言ったことで有名だ。
日本との関係でいえば、江戸時代に志賀島(いまの福岡県)で発見された金印で、現在では国宝に指定されている「漢委奴国(かんのわのなのこく)王印」は、光武帝が日本(倭の奴国)の使者にあたえたものとされている。
金印(漢委奴国王印)
劉邦がまさに「柔よく剛を制す」で、ラオウみたいな猛将・項羽との戦いを制して漢を興したが、王莽(おうもう)とかいう超無能に皇帝の座を奪われたことで、紀元後8年に滅亡する。
ドイツの軍人ゼークトが定義したと言われる組織論では、軍人について、有能な怠け者は「指揮官にせよ」で、無能な働き者は「銃殺するしかない」となっている。
タイプとしては後者の王莽が「新」を建国して政治を始めると、それは現実を無視したデタラメなものだったから、民衆を苦しめて周辺諸国からの怒りを買う。
政府軍と区別するために自分の眉を赤くした赤眉軍の反乱などが起きて、家来にも見限られた王莽は大混乱の中で殺された。
*王莽の「莽」の真ん中の部分は、本当は大ではなく「犬」と書く。こんなところに、この人間への評価が見えてくる。
皇位を強奪して国をメチャクチャにした王莽がこの世を去った後、この大混乱を武力で制して皇帝になったのが光武帝(紀元前6年~57年ごろ)だ。
光武帝
光武帝は、王莽に滅ぼされた漢王朝の血を受け継ぐ人間だったから、自身が始めた新王朝も「漢」とした。
いまではややこしいから、ちょっと頑張った飲食店ぐらいでつぶれた(約15年)王莽の「新」をはさんで、「前漢」と「後漢」と言われている。
中国では皇帝が倒されて王朝が滅びると、その生き残りが逃げ延びて再起を図ることもあるが、明のようにそのチャレンジは失敗に終わる。
中国の歴史上、滅亡した王朝を再興させることに成功した唯一無二の皇帝が光武帝。
漢王朝を復活させた功績から「光」、そして強大な力で社会の混乱をしずめたことから「武」の文字が採用されて、彼はこの名になった。
光武帝は「この世界においては、人であることが尊い」と言い、奴隷状態だった奴卑(ぬひ)を解放したことでも知られている。
リンカーン大統領より1800年以上も前に、この政策を行った光武帝は先進的で未来的だ。
王莽による暗黒時代の次に登場したという”時の利”があったとはいえ、天下を統一して平和をもたらし、その後200年ほど続く漢王朝の基盤を築いた光武帝は間違いなく名君だった。
「柔よく剛を制す」のかしこい人だからできたことで、武力だけの脳筋皇帝だったらとてもムリ。
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