第二次世界大戦(WWⅡ)での「悲劇の少女」というと世界的には、「人類のために働いてみせます」という夢をナチス=ドイツによって奪われたアンネ・フランク、日本では「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう」と言って亡くなった佐々木貞子が有名だ。
そんな佐々木貞子の話を知人のロシア人にすると、ロシアには「ターニャ」という少女がいると言う。
「ターニャ」とは、ロシアや東ヨーロッパなどスラブ語圏の国によくある名前「タチアナ」の愛称だ。
日本では、「ウジ虫どもに期待などしておらん。だが、少なくとも絶望はさせるな!」と言ったターニャ・デグレチャフ(幼女戦記)みたいに、アニメのキャラでわりとこの名前が出てくる。
そのせいで「ターニャ」でググると、この幼女ばっかヒットして困るのだが。
閑話休題。
*かんわきゅうだい:それはさておきの意。
1930年にロシアで生まれた少女「ターニャ」は、レニングラード包囲戦の犠牲になって14年しか生きることができなかった。
ドイツ軍がバルバロッサ作戦によって、1941年6月にソ連へ侵入したからこの悲劇は始まる。
その年の9月にはソ連第2の都市で、最大の兵器生産地でもあったレニングラード(いまのサンクトペテルブルク)が包囲される。
そして冬の厳寒期に、市内のガス・水道・電力を供給する施設や食料倉庫を攻撃し、市民が人間として生存することを不可能にして降伏を引き出そうとドイツは考えた。
「レニングラードの降伏要求で悩むことはないだろう。それはほぼ科学的な方法で破壊することができる。」とゲッベルスが日記に書いたように、ドイツは楽観的に考えていたらしい。
でもその後、市民は驚異的な粘りを見せて、ソ連軍がドイツを撃退する1944年の1月までの約900日を耐え抜いて、レニングラード包囲戦に勝利する。
これによってレニングラードは「英雄都市」と呼ばれるようになったが、市民の犠牲は大きく、100万人以上が亡くなり、そのほとんどは餓死だったと言われている。
第二次世界大戦で、最大レベルの悲劇となったレニングラード包囲戦の中にターニャはいた。
11歳で塹壕(ざんごう)を掘ったり、爆弾を運んでいたターニャはある日、母親から小さな手帳をもらうと、そこに日記を書くようになる。
それはとてもシンプルな記述で、姉のジェーニャが死亡したことから始まる。
「1941年12月28日の午前12時、ジェーニャが死んだ」
(Женя умерла 28 дек в 12.00 час утра 1941 г.)
こんな感じに、ターニャは身の回りの死をたんたんと記述する。
「1942年1月25日の午後3時、おばあちゃんが死んだ」
「1942年3月17日の午前5時、リョーカが死んだ」
「1942年4月13日の深夜2時、ヴァーシャおじさんが死んだ」
「1942年5月10日の午後4時、リョーシャおじさん」
「1942年5月13日の午前7時半 ── ママ」
アガサ・クリスティの小説『そして誰もいなくなった』みたいなターニャの日記には、最後にこんな言葉がある。
「サヴィチェフ家は死んだ
みんな死んだ
残ったのはターニャだけ」
こう書いた少女も1944年7月、14歳でこの世を去った。
ターニャと彼女の日記
「ターニャの日記」はいま、ロシアでどのぐらい知られているのか?
この少女について教えてくれたロシア人に、メールで聞いてみるとこんな返事がきた。
yes, it is actually a heroine from my city, St.Petersburg. She started her dairy as soon as Leningrad was blockaded.
そうです。彼女は、私の住むサンクトペテルブルグのヒロインなのです。
レニングラードが封鎖されるとすぐに日記を書き始めました。
*dairy(酪農)はdiary(日記)の間違い。
これだと「アルザスの少女ハイジ」になってしまう。
ユダヤ人のアンネと同じく、ロシア人のターニャもナチスの犠牲者だ。
にもかかわらず、冬の厳寒期に電気を供給する施設を攻撃して、今度はロシア軍がウクライナで「第二のターニャ」を出すつもりなのか。
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