「悟空ー!!!! はやくきてくれーっ!!!! 」
そう叫んだクリリンみたいに、歴史をみると日本も、ピンチにおちいった東アジアの友人から助けを求められたことがある。
ということで今回は、困った隣人から日本が助けを求められた事例を2つ紹介しよう。
まずは663年の白村江(はくすきえ)の戦い。
この少し前、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国があって、三すくみでにらみ合いが続いていたなかで新羅が動く。
大国の唐に支援を要請すると「ならば応えよう」と唐の軍隊がやってきて、その連合軍と戦った百済は敗北し、660年に地上から滅亡する。
でも、国が無くなっても人はいる。
百済が消滅した後も鬼舞辻無惨、じゃなくて旧百済の軍人だった鬼室 福信(きしつ ふくしん)が生き残った人たちをまとめ、抵抗運動を続けて百済を再興しようとがんばった。
だがしかし、それでは力不足は否めないから、彼は南に目を向ける。
それで「日本ー!!!! 助けてくれーっ!!!! 」と軍事支援を求めれた日本(倭国)は、斉明天皇や中大兄皇子が「ならば応えよう」とその要請に応え、同時に百済難民を受け入れた。
百済復興のために、唐&新羅との戦いを決意した日本は援軍を送ることにして、日本に人質としていた王子の扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)の帰国を福信から求められると、日本はそれも認めた。
にもかかわらず、鬼室福信とケンカした豊璋は福信を殺害するという不幸フラグを立てやがる。
義を見てせざるは勇無きなりで、友好国だった百済のために、その遺臣や王族といっしょに日本は全力で戦った。
でも、旧百済勢力は内部対立していた、日本の戦闘経験は浅かった、そして唐&新羅の連合軍はラスボス並みに強大だったこともあって、日本は白村江の戦いで敗北する。
これで故国再興の夢を断たれた遺臣らは、朝鮮半島と縁を切って日本へ亡命し、その知識や技術を提供しながら日本社会に溶け込んでいく。
鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。
百済王の一族、豊璋王の弟の善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。
鄭成功
「ラウンド2」は17世紀だ。
中国の明王朝が北方からやってきた清の攻撃を受けて、最終的には1644年、北京の紫禁城にいた崇禎帝(すうていてい)が下の木で首をつって自殺し、明は滅亡した。
これはたしか2代目の木
すると百済と同じパターンで、旧明の生き残りが復興をかけて清と戦う。
そんな人たちの中でもっとも有名な人物が、長崎生まれで日本人の母と中国人の父をもつ鄭成功。
軍人だった鬼室 福信が王族の扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)を立てたように、軍人の鄭成功は皇族の隆武帝を旗印にして旧明勢力を結集し、清をブッ倒して明王朝の再建を悲願とした。
だがしかし、力不足は否めないから彼は東に目を向ける。
それで「日本ー!!!! 助けてくれーっ!!!! 」と、旧明勢力が日本に支援を求めた動きを日本乞師(にほんきっし)という。
彼らは近隣で相当の軍事力を保有していた日本に軍事支援を求め、連合して清軍を駆逐することによって明朝再興を果たそうと考えた。
でも、清との対決は負担が大きすぎる。
それでこのとき江戸幕府は「ごめん無理」と断り、白村江の戦いのように他国のために戦うこともなかった。
でも、幕府は刀などの武器は提供したし、鉄人部隊と呼ばれる日本の武士団がいたという説もある。
そんな日本の支援もむなしく、旧百済勢力と同じように、鄭成功の故国復興の夢も実現できなかった。
ということで歴史をみてみると、日本は「助けて!」と言われたことはあっても、その逆パターンは知らない。
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