むかし中国を旅行していた時、日本語ガイドからこんな自慢を聞いた(聞かされた)。
「15~16世紀にコロンブスがアメリカ大陸へ到達したり、マゼランが世界一周の航海に出かけました。いわゆるヨーロッパ人の大航海時代ですね。でも、それより100年ほど前に中国人が大航海を成しとげたんです。明の時代、永楽帝に命じられた鄭和(ていわ)が大遠征を行って、中国から東南アジア、インド、アラビア半島、アフリカ(現在のケニア)まで到達しました。」
そうドヤ顔で話す中国人の内容は、鄭和が1405年~1433年の間にした7回の大遠征のこと。
中国版Wikipediaとも言われる「百度百科」にも、郑和(鄭和)が古代中国では最大規模、ヨーロッパの大航海時代の前では、史上最大規模の船団を送り出したと誇らしげに書いてある。
郑和下西洋是中国古代规模最大、船只和海员最多、时间最久的海上航行,也是15世纪末欧洲的地理大发现的航行以前世界历史上规模最大的一系列海上探险 。
では、なんで永楽帝はこんな大航海をしようと考えたのか?
日本語では「えいらく」という、落語家みたいな名前の明の第三代皇帝・永楽帝
永楽帝は1402年に反乱をおこし、自分の甥(おい)である二代目皇帝・建文帝を倒した後、皇帝として即位する。(靖難の役)
新しい皇帝になった永楽帝は、武力で皇帝の座を奪いとったという事実は耐えられないほどの汚名だっだようで、すぐに歴史の改ざんを行う。
「建文」の元号を消して二代目皇帝は自分だったとして、建文帝なんて人物は存在していなかったことにした。
結果的にはそんな記録が残ってしまったから、「恥の上塗り」という残念な結果に終わる。
そんな永楽帝には気がかりなことがあった。
自分が南京を攻略したとき、建文帝は自害したと考えられたが、その死体は発見されなかったから、建文帝はあの混乱のさなか変装して、逃亡したという生存説が流れる。
「建文帝がどこかで生きている」説は、永楽帝にとっては最大の悪夢。
皇帝としての正当性はあちらのほうが上だから、人々が建文帝のもとに集まってリベンジするかもしれないから、その可能性を消すために永楽帝が鄭和に建文帝の捜索を命じ、艦隊を連れて出発させたという説がある。(鄭和・大航海の理由)
「百度百科」によると、中国と外国との友好交流を強化するため(加强中外友好往来)らしい。
そしてもし建文帝を見つけたら、自分と血のつながりがあっても永楽帝はきっと死を命じた。
建文帝の側近については、罪人となった本人だけでなく、その家族や遠い親戚、さらには使用人や門人まで永楽帝は処刑した。
一族や関係者を見つけて次から次へと殺害したことから、その暴虐ぶりは「永楽の瓜蔓抄(えいらくのつるまくり)」と呼ばれるようになる。
永楽帝を激怒させた方孝孺(ほう こうじゅ)の場合は、血のつながりのある人間が芋づる式に捕らえられ、800人以上が殺害されたという話があって、これは「滅十族」と言われる。
ただ靖難の変のとき、2歳だった建文帝の息子の朱文圭(しゅ ぶんけい)の命は助けられた。でも、50年以上も幽閉されて人生はつぶされた。
「永楽の瓜蔓抄」や「滅十族」という大量虐殺をした永楽帝にも、輝かしい面はある。
外敵を討伐して国内に平和と安定をもたらしたし、皇帝にしては質素な生活をしていて、役人には民衆の苦しい生活を報告するよう命じて、災害がおこったと知ると民の救済を行なうとか、わりと良い政治をしていた。
これも自分に反対する人間を、関係ない人まで根こそぎ粛清したことの1つの結果なんだろうけど。
ちなみに足利義満が日明貿易を行なったときの皇帝が永楽帝で、日本との友好関係は、義満の次の足利義持が明の使者が追い返すまで続いた。
鄭和の船団が持ち帰ったキリンに、永楽帝は歓喜したという。
永楽帝がつくった北京の紫禁城
中国文化の日本文化への影響②日本風にアレンジした5つの具体例
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