「もう江戸時代なんてやってる場合じゃねえ!」
と薩長を主力とした新政府軍が戊辰戦争で徳川幕府を終わらせて、日本は明治という新しい時代をむかえた。
でも欧米諸国と比べると、新生日本はあまりに貧弱。
当時を生きた日本人には、独立を守れるかどうかもあやしかったらしい。
たとえば福沢 諭吉は「亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説」でこう書いている。
歐米諸國の有樣に比して、學問の優劣、商賣の盛否、國の貧富、兵の強弱を問はゞ、殘念ながら今日の處にて我は未だ彼に及ばずと云はざるを得ず。
日本は学問でも商売のやり方でも、経済力でも軍事力でも欧米に負けている。
植民地化への危機感とこうした意識は、このとき多くの日本人が共通して持っていたはず。
だから日本は欧米に学んで、先進的な文明や文化を積極的に吸収して近代化への道を突っ走った。
その事情は中国(清)に同じ。
中国にも明治維新と同じような社会改革があって、ヨーロッパの優れた科学技術などを導入し国力を高めようとした。
それを洋務運動という。
ともに近代化を目指したけれど、日本は成功し中国はそれに失敗した。
どうして差がついたのか… 慢心、環境の違い。
その点については中国人も関心があるようで、洋務運動が失敗した理由を中国メディア「快資訊」が分析している。
サーチナの記事(2021-05-27)
明治維新が成功し、洋務運動の失敗したのは「当然のこと」だった=中国
欧米諸国の”外圧”によって明治維新と洋務運動はほぼ同時期に始まり、日中は西洋の進んだ技術などを自国へ導入しようとした。
西洋のやり方を受け入れるけど、自国の精神や伝統は大事にするということでも共通している。
日本でいう「和魂洋才」に対して、中国の洋務運動のスローガンは「中体西用」だった。
そこまでは同じでも結果は正反対で、明治維新が成功した一方、洋務運動は失敗に終わった。
その理由を「快資訊」はいくつか挙げているので、そのなかから大事そうなものをピックアップしよう。
日本では幕府を倒した新政府の改革派が政治的権力を握ったことで、全面的な改革をおこなうことができた。
清では改革派の権力が小さすぎて、社会を変えることができなかった。
日本の明治維新では欧米の制度などを全面的に導入したが、洋務運動では部分的な導入にとどまった。
日本では明治政府が新しい企業をつくり、また民間に対しても企業をつくるよう促した。でも、清には民間を支援し、社会を活性化させるような動きはなかった。
さて、この記事に日本のネットの声は?
・日本は江戸時代から識字率が高かったから、明治維新を促進する原動力になったんだよ。
・ ヴィクトリアというゲームだと近代化できる非欧米の国は日本、中国、ペルシアだけだったかな?
・火縄銃の構造を理解して
大量生産できた日本
その後ライフル銃も量産
ドイツからのライセンスでようやく
そこそこ量産できた清朝
・最も大きな違いは
清国に住んでいた国民は清人であり
日本では日本人であったことだ
清ではそれまで政治の中心にいた人たちの力が強く、彼らは権力を失いたくなかった。
その思いから、社会を作り変えようとする新勢力にブレーキをかけていたため、清は西洋文明を部分的にしか取り入れることができなかった。
こんな中途半端な改革では、社会全体を変えることはできない。
日本では江戸幕府を倒した勢力が主体となって改革をおこなっていたが、清では皇帝を頂点とする従来とまったく同じ政治体制で改革をやろうとした。
日本は戊辰戦争で旧勢力を一掃したから、明治維新という大改革を成功させることができたのだ。
清は旧勢力を温存させたまま社会を変えようとしたから、抵抗勢力からすさまじい反発を受けて洋務運動はとん挫した。
戊辰戦争という大掃除をしたあとにスタートポイントに立った日本と、それがまったくなかった中国では、社会改革を始める時期が同じでも、まったく別の結果となるのは当たり前。
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> 日本では幕府を倒した新政府の改革派が政治的権力を握ったことで、全面的な改革をおこなうことができた。
> 清では改革派の権力が小さすぎて、社会を変えることができなかった。
それはそうなんですが、その理由は、
> ・最も大きな違いは、清国に住んでいた国民は清人であり、日本では日本人であったことだ
であるという考えに私も賛同します。
当時の清国の全域に住んでいたのは、むしろ「中国人」であり、「清人」ではなかったと思います。
中国も結局は多数の多民族国家ですから。日本人にはイマイチその感覚が分かりません。