「台湾南部で尊敬されている日本人鉄道技師 ※飯田豊ニ技師」
台湾人にそう言われると、「ああ、あの飯田さんね。でダレ?」となる人がいまの日本では続出するハズ。
台湾人に感謝されていても、日本では無名といって日本人のこと、時々でいいから思い出してほしい。
飯田 豊二(いいだ とよじ:1874年 – 1913年)
ふだんの通勤・通学はもちろん、今週から始まるゴールデンウイークでも、国民の足として活躍が期待されているのが全国各地の電車。
日本でその歴史は1872(明治5)年の10月14日、東京の新橋と神奈川の横浜との間で初めて鉄道が開通してはじまった。
それを記念して、いまではこの日が「鉄道の日」になっている。
明治政府は鉄道の先進国だったイギリスに注目し、モレルという人物を鉄道技術主任として雇って、彼の指導の下でこのこのプロジェクトが完成した。
JR桜木町駅(横浜)の近くに、いまでは「日本の鉄道の恩人」と呼ばれるモレルの碑がある。
エドモンド・モレル
外国人の手を借りて1872年にはじまった日本の鉄道は、すぐに日本人だけで運行されるようになる。
そして富国強兵に成功し近代化した日本は、1894年に清と戦って勝利する。
この日清戦争の講和条約である下関条約で、清が朝鮮の独立を認めることと、台湾を日本へ譲ることが決められた。
そしてはじまる日本の台湾統治。
そんな激動の時代に静岡県で生まれた飯田豊二(とよじ)は、東京工手学校(いまの工学院大学)で土木工学をマスターした後、”国内”だった台湾へ移動し鉄道技師として働くことになる。
そして結婚して子供が生まれ、平凡でも幸せな人生を過ごしていたら、歴史に彼の名前は残らない。
いまの台湾南部に高屏渓(こうへいけい)という台湾では2番目に長く、もっとも流域面積の広い川がある。
高屏渓は下淡水渓(かたんすいけい)と呼ばれていた統治時代、日本は台湾を発展させるために、この大河に鉄橋をかける必要があると考えて、そのプロジェクトを飯田豊二にまかせた。
無茶ぶりや無理ゲーと言っていいほど難易度の高いこの計画に、豊二は自分の人生をかけて取り組む。
豪雨や増水といった困難と悪戦苦闘しつつ工事を進めていき、ついに1913年の6月、下淡水渓鉄橋が完成した。
これは当時のアジアではいちばん長い橋だったから、「東洋一の大鉄橋」と呼ばれる。
でも、寝食を忘れて仕事に全集中した結果、豊二はその疲労から病気になって、人生の集大成である下淡水渓鉄橋が出来上がる直前に病院で亡くなった。
同じ鉄道技師だった小山三郎は、40歳という若すぎる豊二の死を悲しみ、記念碑を建てて彼の業績をプレートに刻んで後世に伝えることにする。
「台湾の鉄道の恩人」というほどではないだろうけど、いまも豊二を称える台湾の人たちもいる。
この鉄橋は台湾の重要有形文化財に指定された。
そんな飯田豊二を「台湾南部で尊敬されている日本人鉄道技師」と呼ぶ台湾人の「Hsu Hsu」さんが記念碑に足を運んで、献花をして感謝の意を表してくれた。
2014年に下淡水渓鉄橋の100周年記念イベントが開催された時、高雄市が豊二の長男と次男を招待したらしい。
台湾人はホントに義理堅い。
日本人が忘れてしまったような日本人に、いまも頭を下げてくれる台湾人がいる。
日本人としてそんな気持ちには、ちゃんと応えないといけないと思うのですよ。
だから日本人はもっともっと台湾へ行って、食べて飲んで遊んで、日本の過去を学ぶべき。
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