先日のペルー戦で「4-1」で快勝したサッカー日本代表。
試合でゴールやアシストを決めて、「無双」した三苫選手がいま”事故”に巻き込まれている。
原因は誤訳だ。
試合後のインタビューで三苫選手が、
「結果だけ見れば『相手が弱い』とか『簡単じゃない』と言われるかもしれないですが、そんなことはないと思います」
と言ったのを、ペルーのメディアが「南米の弱いチームに良い結果で勝つことができた」と報じたから、現地ではサポーターが怒ってただいま炎上中。
三苫選手はむしろペルーの強さを称えたのに、誤訳によって悪役にされてしまった。
でも、もともとの原因は誤解だから、事実が広まっていけば自然と鎮火されるはず。
誤訳が原因でこのぐらいの騒ぎが起こることは、世界的にはそうめずらしいことじゃないと思うけど、なかには歴史を変えるようなモノもある。
日本史でみると、日米和親条約の”誤訳”が有名だ。
私たちのマスターは将軍ではなく、神である。
そんな考え方で幕府の権威が否定されたら、社会の秩序は乱れてしまうということで、江戸幕府はキリスト教を禁止した。
そして始まった”鎖国”は200年ほど続いて、アメリカの軍人ペリーがそれを終わらせたと、日本ではよく言われる。
でも、知人のアメリカ人に言わせると、「ペリーは政府の意思を伝えるメッセンジャーで、その権限も政府から与えられたにすぎない。だから鎖国を終わらせたのは彼じゃなくて、アメリカ政府だよ」となる。
このへんの見方の違いは大したことないとしても、言葉の解釈を間違えると、とんでもないコトになる。
アメリカ全権のペリーと幕府が1854年に日米和親条約を結んで、下田と箱館の2港を開くことになって鎖国は終了した。
ちなみにこれは「通商(貿易)は拒否するが、港は開く」という内容で、4年後の日米通商航海条約で貿易が始まったから、鎖国を実質的に終わらせたのはこの条約と言ってよし。
このとき握手をした日本とアメリカは、この条約には「誤訳」という地雷があったことにまだ気付いていなかった。
日米和親条約の第11条にはこう書いてある(現代語訳)。
「両本条約調印の日より18か月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる」
つまり1年半後に、アメリカは下田に領事館を設置できると。
これについて和文では「兩國政府に於て」と、日米の両方が同意したら、という条件がある。
でも、英文では「provided that either of the two Governments」と、両国のどちらかが望めば領事館を置くことができる、となっている。
兩國と eitherは明らかに別の言葉だ。
国内には開国に反対する勢力も多かった日本側は、同意なんてしないつもりだったから、領事館の設置はないと考えていたが、アメリカ側は1年と半年が過ぎれば置くと考えていた。
日本は港を開放してアメリカ船の寄港を認めただけで、きっと開国する意思はなかったのだろう。
でもアメリカは最初から、自国の代表を住まわせるつもりだった。
第12条には「両国はこの条約を遵守する義務がある」と書いてあるから、後で領事館の設置をめぐって、そんな話は聞いてない! と日米で大モメになる。
結局は日本が折れて、下田に米領事館が設置された。
この誤訳がどちらかのミスかは分かっていない。
日本を開国させるために、幕府の役人が意図的に”誤訳”をしたという説もある。
最後に日本がゆずったことには、”過失”があったということかもしれないから、その可能性は高そう。
どっちにしても今となっては、ただの歴史秘話でしかない。
三苫選手の理不尽な誤訳騒動も、結局は時間が解決する。
でも、ペルーのサポーターの中には、「ミトマの言っていることは完全に正しい。0-4で負けたんだぜ? 俺たちはこの現実を受け入れるべきだ」と燃料を加える人も出てきたから、鎮火は長引きそうだ。
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