豊かな自然に恵まれた愛知県の新城市にはたくさんのハイキングコースがある。
そして自然を好きな外国人は多いから、彼らを連れて新城の山へハイキングに行ってきた。
森林の中を歩いていると「チリンチリン」と一定の感覚で鈴の音が聞こえてくるから、インド人が「あの音は何ですか?」と質問をする。
山の中を歩く場合、クマやイノシシと遭遇しないように、音を立てて自分たちの存在を知らせることは考えたら分かりそうなものだけど、そのインド人に「クマよけの鈴」は初耳だった。
歴史にくわしいアメリカ人がボクとインドの話を聞いていて、「ところで、君たちはこんな鈴を知っているかな?」とアメリカに奴隷制度があった時代の話を始める。
それは、ボクの知る限り日本の歴史にはなかった、おそらく日本人の想像を超えたベルだ。
ちょっと話を脱線して漢字の話をしよう。
「幸」という字の意味はハッピーだから、見るだけで明るい気分になるけど、横棒が一本消えると「辛」になってブルーな気分になる。
この「幸」という漢字の成り立ちはブルーどころか、超ブラックでまさに闇歴史。
実は「幸」という漢字は、古代中国で手を拘束された状態やその刑具(手かせ)を表しているのだ。
他の刑罰に比べると、処刑や手足の切断ではなく、手かせをつけられて、体の自由を制限されるだけの刑罰は比較的ラッキーだった。
そんなことから、「幸」の漢字ができたという。
*くわしいことは共同通信のコラムをどうぞ。
中国の歴史教科書には、「幸」の由来となったとみられる手かせの絵がある。
「商」とは古代中国の殷(いん)王朝のこと。
殷の時代、王は戦争で敵国の人々を捕まえた後、儀式で生け贄(いけにえ)として殺害される人間と、奴隷として働かせる人間に分けていた。
奴隷になると昼は重労働をして、夜は逃げられないようにこうした手かせをつけたまま寝て、朝になると拘束を解かれて再び重労働をさせるという、地獄の生活が死ぬまで続いていた。
そんな奴隷でも生け贄にされるよりは”幸運”だったから、「幸」の漢字ができたという話を、むかし漢字の成り立ちを説明する本で読んで震えた思い出がある。
話を戻すと、アメリカ人が話したのは「奴隷の鈴」のことだった。
西アフリカのガーナにあるかつての奴隷収容所(ケープ・コースト城)を訪れた時、現地のガイドが奴隷を「人の言葉を理解する動物」と表現していた。
アフリカの各地から”狩られた”黒人たちはこんな薄暗い地下室へ押し込められ、手足を鎖でつながれ、不衛生な環境で糞尿をたれ流す状況の中で船に乗せられるまで収容されていたという。
奴隷商人にとって奴隷は人間ではない。
だから同情や憐れみといった素晴らしい感情はまったくなく、船内で抵抗する奴隷がいた場合、再発防止としてこんな措置が取られた。
反抗した奴隷に対する懲罰・拷問による死亡も決して少なくなかった。反乱の首謀者の内臓を他の奴隷に食べさせたり、手首を切り落としたり、吊るした身体をナイフで切り刻む、といった残酷な見せしめが行われた。
「近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で (人文書院) 池本 幸三, 下山 晃, 布留川 正博」
こうしてアメリカ大陸へ運ばれた奴隷たちは、過酷な重労働で苦しむこととなった。
彼らには死ぬまで働き続ける運命しかなかったから、逃亡を考える奴隷が出てくることはオーナーには想定内。
そうさせないために奴隷オーナーは何をしたか?
こんな鈴(Slave bell)を想像できた日本人はいないだろう。
アメリカの奴隷制について書かれた本のイラスト(1839年)
いくつものベルのある鉄製の器具(もはや拷問)を奴隷の首に取り付ける。
こうしてベルの音が聞こえていれば奴隷がしっかり働いていると分かり、音が聞こえなくなればサボっているか遠くへ行ったとみなされ、オーナーはすぐに”適切な対応”を取ることができた。
脱出に失敗した奴隷には、当然ながら残酷な見せしめが行われたはず。
オーナーの機嫌を損ねた奴隷は、生きたまま焼き殺されるリンチを受けることもあったから、それに比べれば、首輪を付けられた状態はまだ「幸」か?
「Slave bell」で画像検索すれば上とは違う鈴が出てくる。
ウェディングベルにクマよけの鈴に奴隷の鈴と、世の中には本当にいろんな鈴がある。
日本の歴史では人身売買はあったけど、人間を動物のように扱い、こんな鈴を付けて働かせたという話は寡聞にして聞いたことがない。
奴隷の逃亡を防ぐための器具として、コレと奴隷の鈴ではどっちがマシなのか?
そんなことをぼんやり想像できる現代は幸せだ。
逃亡を防ぐために、こんな首輪を付けられた奴隷もいた。
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