八月十八日の政変&禁門の変 京都人が山口に怒るわけ 

 

京都大学に通っていたころ、おっと違った、ボクが京都にある大学に通っていたころ、京都人の女性からこんな話を聞いた。

「ウチのおじいちゃんは『山口の人間は許せん!』って言うことがある。わたしはまったく気にしてないけど」

京都人が「中にはね、それが気になる人もいるんですよ。いえ、わたしはまったく構いませんけどね」と言った場合、経験上、自分が気になって仕方がない時だ。
それはさておき、おじいちゃんの山口人に対する憎しみは、1863年のきのう9月30日、京都で起きた「八月十八日の政変」と深く関係している。

 

井伊直弼、桜田門外の変で暗殺される(1860年)

 

「八月十八日の政変」が起こる少し前、1858年に、幕府の大老・井伊直弼が天皇(朝廷)の承認を得ないまま、アメリカとの貿易を開始する日米修好通商条約を結ぶ。
すぐ後に、イギリスやフランスとも同じ内容の条約を締結した。(安政五カ国条約
つまり、日本はそれまでの「鎖国」政策をやめて開国を決断したのだ。
これに対して、日本国の重要な決定で無視されたかっこうの朝廷側は、「聞いてないよ~」以上の強い反発を示した。
その後、井伊直弼が暗殺されるなどして情勢が大きく変わり、朝廷内は2つのグループに分かれて対立を深めていく。
会津藩や薩摩藩などは、朝廷と幕府がタッグを組んで、外国との通商を断絶し、鎖国時代に戻ろうと考えた。これを公武合体派という。
いっぽう、長州藩は公家の三条実美らと組んで「そんなやり方では生ぬるい!」と、天皇を中心に軍を組織して外国と戦うべきだ(攘夷戦争)と主張した。
孝明天皇はこんな過激な尊王攘夷派のテンションについていけず、中川宮朝彦親王と一緒に公武合体派を支持した。

でも、状況としては尊王攘夷派が勢いを増していきく。
それを見て、孝明天皇や朝彦親王が「このままではマズい!」と思い、会津藩や薩摩藩を味方につけて、長州藩やその背後にいる7人の公家を朝廷から追放した。
こうして政敵はいなくなり、公武合体派が実権を握ることに成功する。
1863年9月30日に起きたこの追放劇を「八月十八日の政変」という。

 

戦乱や火災から逃げる民衆(禁門の変)

 

長州藩士たちや7人の公家が泣く泣く京都から去る時、マッカーサーみたいに「I shall return」(必ず帰ってくる) と誓ったはず。
翌1864年、彼らはさっそく京都へ戻ってきた。
汚名を返上し、勢力を取り戻すため、長州藩は京都で会津藩や薩摩藩と戦ったが、返り討ちにされたでござる。
これがいわゆる「禁門の変」だ。
京都の中で大規模な交戦が行われたのは、1615年の「大坂夏の陣」以来のことで、戦火に巻き込まれて約3万戸が焼失し、京都の人たちはとんでもない災難に巻き込まれてしまった。

京都人が「先の大戦」と言うと、それは太平洋戦争ではなく、応仁の乱を指すーー。
そんな歴史感覚(というか伝説)のある京都人からすると、禁門の変について、いまでも山口(長州)に怒るのも当然のこと、…というほどワケではない。
知人のおじいちゃんの血糖値を上げた原因はコレだ。

 

 

禁門(京都御所の門)には蛤(はまぐり)御門があって、現在でもそこには当時の弾痕が残っている。
そのことを思うと、そのおじいちゃんは天皇を敬愛する京都人として、「山口の人間は許せん!」となる。
とはいえ、そんな人はきっと例外だ。
しかし、「いえいえ、わたしはまったく気にしていませんよ」と言う京都人の本音は分からない。
京都の人たちは一般的に天皇に対する想いが強いから、御所に発砲したことに怒りを感じる人はいると思う。
なんせ、まだ 150年しか経っていないのだから。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。