ほんじつ10月2日は「国際非暴力デー」だでー。
イギリスの植民地だったインドで、人々が非暴力&不服従の平和的な方法で抵抗し、1947年に独立を勝ち取った。
この運動を提唱し、独立運動の中心人物だったガンディーは、日本人なら誰でも歴史の授業で「インド独立の父」とならったはず。
ガンディーの誕生日が10月2日だったから、それにちなんで国連が2007年にこの日を世界的な非暴力の日に定めた。
ガンディーが何度もノーベル平和賞の候補に選ばれても、結局は受賞できなかったのは人種差別が原因だったと言われる。
棒で殴りかかる兵士に、民衆は反撃することも逃げるもことしない。
非暴力・不服従運動には、英雄のような勇気と強さ、忍耐が必要だった。
「独立の父」は紙幣のデザインに採用されている。
以前、知り合いのインド人から、ガンディーの非暴力運動について、目からウロコ的な興味深い話を聞いた。
彼の見方によると、この平和的なやり方が通用したのは、イギリスがすばらしい先進国だったから。
もちろん、イギリスの支配はとても残虐だった。
1919年に英軍は、イギリスに抗議していた女性や子どもを含む市民に対し、銃を無差別に乱射して約 1500名以上の死傷者を出すアムリットサル虐殺事件を起こす。
でも、彼らは残酷なだけではない。
当時の世界において、イギリスは法による統治や民主主義の考え方が進んでいたのは事実。
イギリス政府は、軍が非武装の市民を一方的に殺害したことを知った時、それはイギリスの価値観に反する行為だったため、強い衝撃を受けた。
政府関係者はアムリットサル事件について激怒し、アスキス元首相は、
「one of the worst, most dreadful, outrages in the whole of our history」
(我々の歴史上最悪の、最も恐ろしい暴挙の一つである)
と強い言葉で非難する。
この蛮行の責任者だったダイヤー准将は、大佐に降格された後に解任された。
もっとも、ダイヤーを英国法によるインド支配の英雄と考えるイギリス人も多かったが。
インドでは事件後、イギリスに対する信頼は地に落ち、怒りは頂点に達する。
この出来事は、民衆がガンディーの提唱する非暴力運動に参加するきっかけになり、運動はインド全土へ広がっていく。
アムリットサル事件は、イギリスによるインド支配の終わりの始まりになったと考える歴史家もいる。
Some historians consider the episode a decisive step towards the end of British rule in India.
「アムリットサル虐殺事件」で逃げまどう民衆
いまでも現場には弾痕が残っている。
兵士に発砲を命じるダイアー。
この絵の中で彼の目がつぶれているのは、見学に来たインド人がペンなどでつついたからだとか。
「非暴力を用いることだけが、真の民主主義に至る道である」とガンディーは語る。
この民主主義において、イギリスはとても先進的だった。
1215年には、国王の上に「マグナ=カルタ」(大憲章)を制定し、ジョン王に徴税権の制限や不当逮捕の禁止を認めさせた。
国王の権限が小さくなった分、国民の権利が増大したことになる。
この「マグナ=カルタ」によって、イギリスの法の支配と議会政治の原則が成立したとされる。
それから時が流れ、アムリットサル事件が起こる前年、1918年にイギリスで男子21歳、女子30歳の普通選挙が認められた。
知人のインド人はこうしたことを踏まえて、イギリスのインド統治には残酷な側面もあったが、法や個人の権利を尊重するなど、素晴らしい面もあったと認めていた。
だから、イギリスは反英闘争の中心人物だったガンディーを拘束はしても、処刑することはなかったと言う。
イギリスは非暴力の抵抗運動と直面し、最終的には支配をあきらめて、平和的にインドから出て行った。
この偉業はインド人によるもの。
でも、それだけはなく、イギリスはイギリスで立派なところがあったから、このやり方がとても有効だった。
「敵ながらアッパレ」的な彼の視点はとてもおもしろいと思う。
実際、「非暴力」は全知全能の神のようなものではない。
民主主義の反対側にいる独裁者が相手だったら、こんな抵抗手段をとっても、すぐに存在ごと消されてしまう。
余談
2021年の12月25日、クリスマスの日に、エリザベス女王が滞在いたウィンザー城に、クロスボウを持った男が侵入した。
彼はアムリットサル虐殺事件の復讐として、女王を殺害しようとしたのだ。
この男には、現代のイギリスではとてもレアな「反逆罪」が適用された。
こういう行為は、ガンディーもいまのインド人も認めない。
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