知り合いのアメリカ人は、数年前まで日本の中学校で英語を教えていた。
彼女は日本語で会話できて、日本の文化や歴史に興味があり、学校の先生からいろいろな話を聞いていたから、一般の外国人よりも日本について深く理解している。
少なくとも、「日本のことなら知ってるさ! サムライとニンジャ、それとサクラ!」というステージにはいない。
でも、新しいことを知ると、分からないことも増えてくる。
ある日、彼女と話していて、江戸時代の日本の首都を江戸だとカン違いしていた彼女に、正解は京都だと伝えると、ちょっと納得がいかないとこんなことを言う。
「それっておかしくない? 江戸時代には、日本の政治は将軍をトップとする幕府がおこなっていて、それは江戸にあった。それに、その時代はエド時代と呼ばれている。なのに、日本の首都が江戸じゃないっていうのは、とても奇妙な感じがする」
確かに首都機能は江戸にあったけど、天皇は京都にいたから、日本の首都は京都である。
そんな日本史の方程式が、このアメリカ人には分かりづらいらしい。
日本の歴史を学ぶ外国人に話を聞くと、「天皇(朝廷)と将軍(幕府)の関係やそれぞれの役割がよくワカラン」という人が多い。
天皇と将軍による二重統治は日本独特の政治制度だったから、外国人に理解しづらいのはまぁ当然かと。
ということで、外国人から「天皇と将軍の関係や役割ってナンデスカ?」と聞かれた時、聞こえなかったフリをしなくても済むように、今回の記事を参考にしてほしい。
英語の辞書で「将軍」を調べると、軍の最高指揮官を意味する「general」と書いてある。
平安時代の将軍・坂上田村麻呂ならこれで OKだけど、鎌倉幕府が成立してからの将軍には当てはまらない
武家政権のトップとして、国の政治を担当する将軍のような存在は欧米に存在しなかったから、辞書にはそのまま「shogun」と書いてあることもある。
鎌倉から江戸時代までの将軍なら、これが最適解だ。
光厳(こうごん)天皇
天皇と将軍の違いを簡単に言うと、「持ってるモノ」が違うのだ。
天皇は日本最高の権威を持ち、将軍は最大の実力を持っていた。
将軍は武家の棟梁として武士界の頂点にいるから、政治を行ったり全国の武士を動かしたりすることができる。
しかし、いくら実力があっても、自力で将軍になることはできず、必ず天皇から任命される必要があった。
ちなみに、中国ではこの点が違う。
中国は実力主義で、力さえあれば誰でも皇帝を倒し、王朝を滅亡させ、自分が皇帝となって新しい王朝を始めることができた。
たとえば、農民だった劉邦や朱元璋は皇帝になり、それぞれ漢と明を建国した。
1911年の辛亥革命まで、中国の歴史はこの易姓革命のくり返しだ。
一方、日本では武力だけで頂点に立つことはできなかった。
だから、農民から天皇になった人物なんて一人もいない。
日本の現実からすると、そんな設定は異世界転生レベルだ。
でも、将軍の場合は血筋に関係なく、さまざまな人間がその地位に就くことができた。
*「源氏の出身でないと将軍にはなれない」という説もあるが、必ずしもそうじゃない。(源氏将軍)
もし、将軍になれなかったら、その人物は日本各地にいる有力大名の1人に過ぎない。
将軍になれば「その他大勢」から抜け出し、その大名は別格の存在になる。
誰かを将軍にできる権利を持っているのは天皇だけ。
つまり、将軍の権威は天皇の権威に由来するのだ。
南北朝時代の1342年に、そんな天皇と将軍の関係が分かる事件が起きた。
その10年ほど前、後醍醐天皇は、足利尊氏など武士の力を借りて鎌倉幕府を倒し、1333年に「建武の新政」を始めた。と思ったら、これは朝廷中心の政治だったため、武士たちの不満が高まり、新政はたった2年で崩壊する。
こんな背景もあり、この時代は身分より実力を重視し、天皇や朝廷の権威を軽視する『ばさら大名』が登場した。
そんな『ばさら大名』の一人に、足利尊氏に仕えて武名を高く評価された土岐 頼遠(とき よりとお)という武将がいる。
1342年10月6日、頼遠が酒を飲んで酔っぱらっていた時、たまたま光厳上皇の牛車を見かけ、ちょっかいを出した。
「院(いん)と言うか。犬(いぬ)というか。犬ならば射ておけ」と言い放ち、牛車を蹴り倒す。
当時、室町幕府の将軍だった足利尊氏は、政治を弟の直義(ただよし)にまかせていた。
直義はこの一件を知ると、「上皇ごと牛車を蹴り倒すとか、いくらバサラ者でも、それはやり過ぎだろ…」と不快に思った。
…というレベルをはるかに超えて直義は激怒し、頼遠の逮捕を命じる。
最終的には、土岐家の子孫は助かったが、頼遠は京都の六条河原で斬首された。
歴史教科書で「源頼朝」と紹介されていたこの人物は、現在では足利直義とする説が有力。
足利尊氏を将軍に任命したのが光明天皇で、光明天皇を即位させたのが光厳上皇だ。
この流れを逆算すると、光厳上皇の権威をおとしめることは、結果的に尊氏や室町幕府の評価を下げ、その権威を否定することにつながってしまう。
この一件に甘い対応をすると、天皇や上皇を侮辱する人間がまた現れる可能性があり、そういった風潮が広がってしまうかもしれない。
そのため、尊氏を支えた有力者であっても、牛車を蹴る行為は万死に値すると判断されたのだろう。
室町幕府やその後の江戸幕府は、武士による実力主義の社会なんて望んでいない。
弱肉強食の世の中とは反対に、身分や秩序をしっかり定め、幕府が長く続いていくことを願っていた。
直義が「建武式目」で、一部の武士が朝廷や貴族の権威を否定する「ばさら」を禁止したのはそのためだ。
*結果的には「ばさら」の風潮は「下剋上」につながり、応仁の乱の遠因となる。
天皇家は日本最高の権威を持ち、彼らだけが将軍を任命することができた。
幕府が全国の武士を支配する正統性の根拠は、まさにソレだったから、幕府としては天皇の権威を否定するような人間を見逃すわけにはいかない。
場合によっては、その人間が生きることも許さなかった。
天皇や上皇の力では、土岐頼遠(よりとお)に勝つことはできなかったが、足利直義の武力からしたら、頼遠なんて瞬殺レベルの雑魚キャラだ。
天皇と将軍の関係は主君と家来で、そこには超えられない壁があり、天皇には将軍を動かす力があった。
将軍にとってはその関係を壊すより、全国の武士の支配に利用した方が都合がよかったはず。
世界的に「エンペラー(皇帝)」というと、政治をおこない、軍に命令を出す最高実力者を意味するが、日本の歴史はそうではない。
知り合いのアメリカ人やトルコ人はそんな常識を日本史に当てはめて考えたから、「この”将軍”って人が、むしろキングやエンペラーでは?」と疑問に思い、「じゃあ、天皇っていったい何者?」とナゾに包まれた。
日本の将軍のような存在は外国にはなかったから、「shogun」と訳すのが正解になる。
天皇と将軍の関係や役割をナゾに思う外国人には、権威と実力というそれぞれが持っているモノの違いを説明すると、きっと理解しやすい。
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