日本と中国の違い:宦官がいた不幸・日本になかった理由

 

10年ほど前、中国旅行で雇ったガイドが、こんなことを言いやがります。

「むかしの日本人は中国にすごくあこがれていたんです。だから、たくさんの遣唐使が命がけで海を渡り、唐の都・長安へやってきて、いろいろな文化や文明を学んでいました。日本人は中国にあるものは全てすばらしいと考えていたから、何でもマネしようとしました。」

このガイドは客をあおっていくスタイルか、珍しいな。
そんなことを思いつつ、彼に「日本は宦官(かんがん)の制度を採用しなかった」と間違いを指摘した。
結果的に、これは日本にとって大正解だったのだ。

 

イスラム諸国の宦官

 

宦官とは、オフィシャルに言えば男性器、カジュアルに言えばチ○チンを切り取って、皇帝や貴族に仕えた人間のこと。
宦官を使うことには、朝廷側にとってはこんなメリットがある。

彼らには生殖機能がないから、女性とのトラブルが発生しにくい。
だから、皇后や側室が住んでいて男子禁制だった後宮で、宦官は使用人として働かせるにはとても都合の良い存在だった。
また、宦官は子孫を残すことができないから、「一族」を形成することもできず、皇帝の座を奪う可能性がなかった(または低かった)。

ただし、宦官には別のリスクがあった。
彼らは皇帝の近くにいて、着替えや食事、トイレの後始末などの世話をしていて、皇帝が子どもだったときには学問を教えていた。
だから、皇帝とは親密な関係を築きやすい。
そのため、絶大な権力を握り、国を私物化する宦官も現れた。
中国史で代表的な悪宦官に、約 2200年前の趙高(ちょうこう)がいる。
秦の始皇帝に仕えていた彼は、皇帝が死亡するとそれを隠して、自分のコントロール下にあった胡亥(こがい)を新皇帝として即位させた。
そして、実質的に国を乗っ取り、秦を滅亡させる原因をつくった。

 

趙高が絶大な権力を持っていたことを示す、こんなエピソードがある。
あるとき趙高が宮中に鹿を連れてきて、これは馬ですと言う。
胡亥は不思議そうに「それは鹿では?」と言っても、趙高は「いえ、これは馬です」と言い張る。
その場にいた臣下たちにどう思うかたずねたところ、趙高を恐れた者は「これは馬です」と言い、皇帝と事実に忠実な者は「鹿です」と答えた。
後日、趙高は鹿と言った人間を全て捕らえ、処刑したという。
これが「馬鹿」という言葉の由来になったという説がある。
こんな人物が支配する国なんて滅びるしかない。

『三国志』が好きな人なら、袁紹が宮中にいる宦官の処刑を命じ、宦官とそう見えた人間2千人が殺害された出来事を知ってるかも。
宦官を「国家の害虫」と呼んでも、まぁ間違いではない。

 

秦の始皇帝

 

きょう12月14日は、835年に唐で「甘露(かんろ)の変」がおきた日だ。
当時、唐の第17代皇帝・文宗(ぶんそう)は、宦官たちが実権を握っていたことに不満を持っていた。
ある日、怒りが限界突破し、文宗は宦官どもを一掃することを決意して、信頼できる家来にそれを実行させた。

その計画とは、「甘露が降った! これは何かめでたいことがおこる予兆に違いない」とウソをついて、宦官たちを一か所に集めたところを兵士に襲わせるというもの。
しかし、待ち伏せしていた兵士が宦官たちにバレてしまい、計画は失敗に終わった。

この「甘露の変」で、文宗は忠実な臣下を失い、宦官の勢力はさらにマシマシとなる。
皇帝も国も宦官の思いどおりに動かされ、文宗は「朕は家奴(宦官)に制されている」と失意の中で病死した。
これも唐が滅亡する原因となった。

 

宦官抹殺に失敗し、“あやつり人形”となった文宗

 

中国でそんな「甘露の変」があった12月14日は、日本では1285年に「霜月騒動」がおきた日だったりする。
元寇で日本を守った執権・北条時宗が亡くなった後、北条貞時が9代執権となった。
そのころ鎌倉幕府の有力な御家人たちが対立していて、平 頼綱(たいら の よりつな)らが攻撃をしかけ、敵の一族を滅ぼしてしまう。

日本の歴史では、貴族や武士が争うことはあっても、宦官が原因となって戦いが発生することは一度もなかった。
というのは、日本は宦官の制度を採用しなかったから。
日本では女官や蔵人(くろうど:天皇の秘書のような存在)などが宦官の役割を果たしていたのだ。
一方、朝鮮では昔から宦官がいて、国の混乱を招くこともあった。

もちろん、中国の宦官には、艦隊を率いてアジアや東アフリカに到達した明の鄭和(ていわ)のような偉人もいる。
しかし、国家滅亡の原因となった宦官も多く、全体的なイメージは悪い。

 

「日本人は中国にあるものは全てすばらしいと考えていたから、何でもマネしようとしました。」

そう言っていたガイドは、

「日本はさまざまな中国文化を取り入れましたが、たしかに宦官の制度は採用しませんでしたね。素晴らしい目を持っていて、賢い選択をしましたよ。」

と、すぐに手のひらを返す。
中国の歴史で宦官がしたことを知っていれば、こういう反応になる。
日本人は取捨選択をして、必要なものだけを学び、受け入れたのだ。

日本に宦官制度がなかった理由にはこんな説がある。
農耕民の日本人は中国人と違って、動物を去勢(チンチ○の除去)する知識や技術がなかったから、人間に対してもそれを行うという発想が生まれなかった。
ほかにも、日本人は仏教の「不殺生」の影響から、そんな残酷なコトを嫌ったという説もある。

ご先祖さまがどういう理由で、宦官に「NO」と言ったかは分からないけど、国家の混乱を招く要因を排除したことは正しかった。
それに、将来の子孫に、「日本は中国文化を何でもコピーしたわけではない」ということを、中国人に納得させる根拠を作ってくれたことも良かった。

 

このアニメでは、「ジンシ」というイケメン宦官が出てくる。

 

 

中国 「目次」

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2 件のコメント

  • 興味深く読みました。
    韓半島の古代国家では宦官制度がありましたね。朝鮮時代にはその宦官を「内侍(ネシ)」と呼んでいました。しかし、内侍によって国に災いが生じる大きなことはありませんでした。
    些細なことはたまにありました。朝鮮を開国した李成桂(イ·ソンゲ)の嫁が内侍と不倫をして追い出された事件のようなものです。その一方で忠臣だった内侍もいました。暴君だった燕山君(ヨンサングン)時代に燕山君に忠言をして腕、脚を切られて死んだ金處善(キム·チョソン)がその人です。

  • 宦官はイスラム諸国にあって、世界的には珍しい存在ではありません。
    韓国については、ウィキペディアに「高麗の毅宗が寵愛する宦官の専横を許したのが毅宗の廃位と武臣政権成立の一因となった」とあったので、記事であのように書いたのです。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。