17世紀、英国と違って、徳川幕府がキリスト教を禁止したワケ

 

1610年のきょう1月6日は、大名の有馬晴信(はるのぶ)が長崎でポルトガル船マードレ・デ・デウス号に攻撃をしかけた日。
これによって船は炎上し、乗っていたマカオ総司令のペソアは自害した。
この事件のきっかけは2年前にさかのぼる。
1608年に晴信の朱印船がマカオに寄港した際、日本人とポルトガル船の乗組員との間で騒動が発生し、ペソアがそれを鎮圧した。
このとき日本人側に多くの死者が出て、晴信はペソアを憎んでいたから、家康の許可を得て、1月6日に報復攻撃を行ったわけだ。
ただ、ここでは、この事件が引き起こした「岡本大八事件」に注目しよう。

 

この事件の後、岡本大八という男が晴信に、

「家康公は今回のほうびとして、あなたに領地(藤津・彼杵・杵島)を与えることを考えているようです。私がその働きかけをしましょうか?」

といった話をする。
大八自体はハッキリ言って雑魚キャラレベルで、大した力を持っていない。
でも、彼の主人である本多 正純(まさずみ)は徳川家康の側近だったから、ラスボスの幹部並みの影響力があった。
「あの本多正純が仲介してくれたら、必ず領土をゲットできるはず」と晴信は考え、大八の要求に応じて多額のワイロを渡してしまった。
大八はこの詐欺行為を成功させるために、ニセの朱印状まで用意していたのだ。

しかし、しょせんは大八のような小物の浅知恵、この悪事はすぐにバレてしまう。
朱印状を発行できるのは家康だけだから、これを偽造しただけで万死に値する。
1612年、大八は市中を引き回された後、火あぶりの刑に処された。
晴信には切腹が命じられたが、キリスト教では自殺が禁止されていて、彼はキリスト教徒だったため、それを拒否する。
自害する代わりに、晴信は家臣に斬首させた。
こうして世間を騒がせた「岡本大八事件」は一件落着するかに見えたが、これによって別の問題が発生し、結果的には「終わりの始まり」となった。

 

有馬晴信だけでなく、実は今回のメインキャラである岡本大八もキリスト教徒だった。
ちなみに、晴信の叔父の大村純忠も有名なキリシタン大名だ。
当初、家康はキリスト教の布教を認め、“野放し”にしていたが、この件で嫌いになり、全国に禁教令を出した。
この際、発布された「伴天連追放之文」では、日本は神・儒・仏三教の国であり、キリスト教は日本を惑わす邪教だと厳しく非難している。

このすぐ後、徳川幕府は1615年に「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼすと、100年以上も続いた戦乱の世の中が終わり、平和な時代が到来したを全国に知らせるために、元号を慶長から元和に改めた。
これを「元和偃武(げんなえんぶ)」という。
*偃武とは「武器を偃(伏せる)」という意味で、戦争がなくなり平和な状態を表している。

しかし、1637年に有馬晴信の支配地で、キリスト教の信仰が盛んだった島原で大規模な反乱(島原の乱)がぼっ発。
これは、徳川幕府が理想とした「元和偃武」と真逆のカオス状態だ。
この鎮圧に苦労した幕府は、キリスト教を厳禁する方針をとった。(キリスト禁教令

 

チャールズ1世

 

日本でそんな騒動があったころ、英国はチャールズ1世の統治下にあった。
ちなみに、家康とチャールズ1世が手紙のやりとりをしたことで、日本とイギリスの関係が始まった。
有馬晴信がポルトガル船に攻撃をしかけた1月6日は、1649年に英国議会がチャールズ1世の裁判を行うことを決定した日でもある。
そして、それから1ヶ月も経たないうちに、王は公開処刑にされた。
彼は最期にこんな言葉を残す。

「我はこの堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこにはどんな争乱も存在せず、世界は安寧で満たされているのだ」

 

チャールズ1世の処刑
民衆が見守るなか、王はひざまずき、首をオノで切断された。
絵をよく見ると、首から血が吹き出しているのがわかる。

 

王が処刑された理由は、彼が内戦に負けたから。
チャールズ1世は、キリスト教の教派の一つであるイギリス国教会を信仰していて、同じキリスト教の「ピューリタン(清教徒)」を弾圧した。
これがきっかけでイングランドで内乱が起こり、それが清教徒革命につながって、最終的に王は首をはねられた。

 

徳川家康の「三大ピンチ」の一つ、三河一向一揆で家康は宗教の恐ろしさを痛感した。
*残りの2つの危機は三方ヶ原の戦いと伊賀越え。

家康の“ペンパル”だったチャールズ1世は、宗教に対する考え方では家康の反対側にいた。
熱心な国教会の信者だった彼は、自分の信仰を国民に押し付けたことで内乱の原因を作ってしまう。
江戸幕府がいちばん嫌ったのは、こんな大規模な戦いだ。
徳川将軍がチャールズ1世のような最期を迎えないように、幕府は考え抜いて政治制度を完成させた。
「そこにはどんな争乱も存在せず、世界は安寧で満たされている」というチャールズ1世の理想状態は、日本風に言えば「元和偃武」になる。
江戸時代の日本で、平和な時代が長く続いた理由には、キリスト教を厳しく禁止したことがある。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。