本日1月12日は、1875年に中国(清)で光緒帝が皇帝になった日。
そんなメデタイ報告の後に訃報があって、この皇帝は1908年に亡くなり、次に溥儀(ふぎ)が皇帝として即位した。
彼が有名な清朝最後の皇帝で、その波乱の人生は映画でも描かれた。
彼は「皇帝ガチャ」で大ハズレを引いてしまう。
わずか2歳で皇帝になった時、国内には民衆の怒りや不満があふれていて、清王朝はすでに手遅れで溥儀には何もできず、3年後に辛亥革命が発生し、1912年に清は滅亡した。
そうなる未来は光緒帝の時代に決まっていて、その後は「お前はもう死んでいる」という状態が続いたようなもの。
清朝を終わらせた皇帝は光緒帝だ。
光緒帝(1871年〜1908年)
清が滅亡した理由は山盛りあるけれど、ここでは「中華思想」を取り上げたい。
中華思想とは、中国こそが世界の中心で、最も進んで文明国であり、その文化や思想は神聖なものであるとする価値観や考え方のこと。
中国人(漢民族)が“自画自賛”した自民族中心主義を指す。
『ジョジョ』風に言えば、「我が中国の文明は世界一イーーーッ! 他国に学ぶことは何もないイーーッ!!」という状態。
中国人が持っていた中華思想を表すエピソードがある。
18世紀の乾隆帝の時代、初めてのイギリス使節であるマッカートニーがやって来ると、中国側は彼を歓迎し、「三跪九叩頭の礼」を要求した。
これは3回ひざまずき、額を9回地面にすりつける行為で、まぁ9回土下座をするようなものだ。
臣下は皇帝にこの「三跪九叩頭の礼」を行い、最高の敬意や心からの服従の意思を表した。
しかし、イギリス人にそんな考え方が通じるわけなく、「は? ざけんな」とマッカートニーは拒否する。
皇帝へのあいさつの仕方でモメて、最終的にはマッカートニーが片膝をつき、乾隆帝の手にキスするイギリスのやり方が認められた。
ただし、清側が譲歩したのはここまで。
イギリスが求めた対等外交については、「は? ざけんな」と拒絶した。
中華思想の考え方からすれば、中国は世界で最も偉大な国で、“対等な国”はこの世に存在しないのだ。
清朝政府の人たちは、「これだから文明を知らない野蛮人は…」とイギリス人にあきれたと思われる。
清はこんな「井の中のでっかい蛙」のまま、19世紀の帝国主義の時代を迎えてしまう。
ジョージ・マカートニー(1737年〜1806年)
彼の立場からしたら、大英帝国が中国にひざまずくことはありえない。
19世紀は、強国が力のない国を支配する弱肉強食の時代で、西洋列強が圧倒的な武力を背景にアフリカやインド、東南アジアの国々を植民地にし、東アジアへ迫ってきた。
日本ではこの国難を乗り越えるために、江戸幕府をぶっ倒し、明治維新という大改革を行い、近代国家として生まれ変わったことで独立を守った。
清はそれに失敗し、最終的には滅亡してしまう。
中華思想の世界では、外国が中国皇帝の権威を認めて家臣になり、中国の文化や制度を取り入れることが「文明化」だから、中国が外国に学ぶという発想は出てこない。
それでも、アヘン戦争(1840年〜42年)やアロー戦争(1856年〜60年)で、イギリスやフランスにボコられたことで、清は近代化の必要性を感じて動き出す。
日本の明治維新のように、清もヨーロッパの技術を導入して国力を増強をする「洋務運動」を推し進めた。
しかし、「我が文明は世界一ィィィィーーーーッ!」という中華思想の意識がジャマをして、日本のように西洋社会を深く学ぶことができず、清は新しい時代についていけなくなる。
日清戦争で敗北し、清は初めてそのことに気づく。
このころ作家の魯迅は、なおも中国を「大国」と思い込んでいる夢想家たちを痛罵した。
魯迅は中華思想に染まって現実を見ようとしない人々を痛烈に批判し、「狂人日記」「阿Q正伝」などを記して中華思想からの覚醒を呼びかけた。
光緒帝はわりと現実を理解していたが、中華思想に染まった人たちの抵抗にあい、幽閉されて殺された。
一方で、日本人は「欧米列強にはとてもかなわない」という事実を受け入れ、西洋の文明に学び、必要なものを積極的に採用して日本を一新させた。
アメリカの著作家シドモアは、そんな明治日本を見てこう感嘆する。
日本の陸海軍の創設、警察機構、行政組織は諸外国の最高例を範とし、また教育機関は完璧で、米国、英国、ドイツも制度から得た賞賛すべき最高結合体となりました。
さらには郵便制度、灯台、電信、鉄道、病院も西洋と同じ方式を採用しています。
すべてこれらは、緩慢な成長、遅鈍な発達、悠長な必要性の所産ではなく、ほとんど自発的に日本帝国の魔術的指揮棒の一振りで完成させたのです
「シドモア日本紀行 (講談社学術文庫)」
日本は古代にも、唐に学んで国を発展させた経験がある。
日本人は学習能力が高く、スゴイものは素直に認め、それを吸収することができるから、「賞賛すべき最高結合体」とアメリカ人を驚かせた。
中国に学んでも、中華思想に染まらなかったのは本当に良かった。
エリザ・シドモア(1856年〜1928年)
中国文化の日本文化への影響②日本風にアレンジした5つの具体例
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