神聖ローマ帝国(800/962年 – 1806年)には「帝国アハト刑」という、おっそろしく過酷な刑罰があった。
*神聖ローマ帝国は大体いまのドイツと考えてヨシ。
この「帝国アハト刑」は、英語では「インペリアル・バン(Imperial ban)」という。
皇帝や帝国議会などによってこの宣告を受けると、その人物は神聖ローマ帝国内では法律の対象外、つまり無法者となる。
帝国から「バン」されると、その人間はすべての権利と財産を失い、法的には「死者」とみなさる。
だから、その人物を襲って傷つけたり、殺したりしても罪に問われることはなかった。
lost all their rights and possessions. They were legally considered dead, and anyone was allowed to rob, injure, or kill them without legal consequences.
法的には死体(dead)となるから、「インペリアル・バン」をくらった人間は“ゾンビ”になるようなもの。
ゾンビが相手なら襲って殺したり、持ち物を奪ったりしても法的な問題は発生しない。
ウィキペディアによると、本日1月22日は、1521年に神聖ローマの皇帝カール5世がヴォルムス帝国議会を召集し、マルティン・ルターを呼び出した日。
ルターは、「金さえ払えば魂は救われる」と宣伝し、贖宥状(しょくゆうじょう)を販売して、ガッツリ金もうけをしていたローマ・カトリックを批判し、宗教改革の導火線に火をつけた人物だ。
ヴォルムス帝国議会で、ルターは「帝国アハト刑」を宣告されてしまった。
ただ、この場合は、ルターをかくまうことは禁止され、彼を捕らえた者はローマ・カトリック教会へ引き渡すことになっていたらしい。
そうなったら、ルターはきっと生きたまま焼き殺されていた。
しかし、ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世の保護を受けることができたから、帝国から「バン」されても、殺されることはなかった。
さて、こんな「帝国アハト刑」みたいな刑は日本にもあっただろうか?
ヴォルムス帝国議会で弁明するルター(左の白い服を着た人物と思われる)
平田篤胤
話を日本に移すと、1841年のきょう1月22日は、思想家の平田篤胤(あつざね)が幕府に対して批判的なことを言った(書いた)ため、江戸からの追放を命じられた日でもある。
つまり、幕府から「出禁」をくらったわけだ。
彼は故郷の久保田藩(いまの秋田市)に戻って、そこで藩士として召し抱えられた。
篤胤は家も与えられ、弟子たちに学問を教えていた。
神聖ローマ帝国の「帝国アハト刑」に比べれば、この罰はかなるヌルい。
「日本には、そんな過酷な刑罰は無かったんだろうな〜」と思ってネットを見ていたら、この宣告を受けた人間は、日本で言えば「落武者」になると指摘する人がいて、「なるほど!」と思った。
戦いに敗れて逃亡する人間は「法の対象外」と見なされ、あらゆる保護を受けることができなくなる。
落武者はすべての権利を失ったとされたから、誰かが襲って傷つけたり、殺したりしても罪に問われることはなかった。
だから、落武者はインペリアル・バンをくらった「生きる死体」と同じ状態となる。
戦国時代には、合戦が終わると、付近の農民が「落ち武者狩り」を行い、落武者を見つけると「ヒャッハー!」と襲いかかって殺したり、鎧や刀などを奪ったりした。
「落ち武者は薄(すすき)の穂に怖(お)ず」という言葉がある。
落ち武者はいつ襲われるか分からない。
いつも怯えているから、「すすきの穂」が動いただけでも恐怖を感じてしまう。
これは、落武者の極度に緊張した精神状態を表している。
「帝国アハト刑」の宣告を受けたルターも、一時はそんな心境になったのでは?
守ってくれる人が誰もいなくて、ある集団や組織から、あいつなら何をしてもいいと見なされる。
そんな「生きる死体」のような状態にある人は、いまの日本の社会にもいるかもしれない。
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