きょう1月26日は「オーストラリア・デー」。
日本では江戸時代、松平定信が寛政の改革(1787年〜1793年)を行っていたころ、オーストラリアでは1788年の1月26日に、イギリスの入植者たちを乗せた艦隊がシドニーに到着した。
この日から、現代のオーストラリアの歴史がはじまったとされている。
だから、オーストラリアはとっても若い国なのだ。
白人たちのシドニーに到着を記念して、制定されたオーストラリア・デーは、すべての州で祝日となり、各都市でお祭りやコンサートなどが開かれる。
しかし、それはイギリスからやってきた人たちの目線で、先住民のアボリジニにとっては地獄がはじまった日だ。
首に鉄の鎖を付けられるアボリジニたち(1902)
「紳士の国」からやってきた人たちは、オーストラリアに古くから住むアボリジニを人間として扱っていなかった。
当時、オーストラリアは流刑地だったから、多くの囚人が送りこまれた。
そうした人たちの中にはスポーツのハンティングとして、アボリジニを追いかけ、銃などで虐殺する者もいた。
イギリス人にとってこれは一種の娯楽、レジャーに過ぎない。
だから、現在でも「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をしとめた」と、キツネ狩りをしたような気軽さで書かれた日記が残されている。
19世紀に入ると、タスマニアでアボリジニの生活圏に白人たちが侵入し、衝突が起こるようになる。
ノーフォークであったこんな出来事は、当時オーストラリアの各地であったはずだ。
入植者たちは暴力を用いて土地の所有権を主張し、アボリジニーのキャンプを夜襲して両親を惨殺し、孤児となった子供たちを奴隷にするため誘拐した。
タスマニアで行われたこのブラック・ウォーでは、1828年にイギリス兵にアボリジニを自由に捕まえたり、殺害したりする権利が法的に認められた。
これはもう、「殺人許可証」と言っていい。
そんなこともあり、600人から900人のアボリジニが殺され、彼らはほぼ全滅した。
これをジェノサイド(大量虐殺)と表現する人もいる。
こんな闇歴史があるから、オーストラリア・デーを「インベージョン・デー(侵略の日)」と呼んで、殺された先住民を追悼する動きもある。
また、白人たちの迫害や差別にもかかわらず、アボリジニは現在まで生き残ったということで「サバイバル・デー」と呼ぶ人たちもいる。
いまはアボリジニのターンで、白人たちは彼らの権利を尊重しないといけなくなった。
江戸時代の日本は、アイヌの人たちを動物扱いしなくて本当に良かった。
「オーストラリア入植100周年」を祝って行われた晩餐会(1888年1月26日)
オーストラリア人が見た1970年代の日本 地獄の東京・異質な人
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